吉田読書記録『一年一千冊』

20220929

読了No. 12 『第三次世界大戦はもう始まっている』著 エマニュエル・トッド、訳 大野舞(文春新書)2022年6月17日発行

久しぶりに読了をネットに出そうかな。Emmanuel Todd。冷静でない世相を危惧しフランスでの取材を全て断ったが、日本では受けたインタビューの本がこちら。

彼は多角的に思考するひとであるが特に、歴史人口学(Historical demography)や文化人類学(Cultural Anthropology)(家族人類学)からの視点が来る。彼は家族構造と政治経済体制(イデオロギー)の一致を発見し、各国の特質を指摘する。

また、いまの日本人のなかであまり主流の論調に流されないほうのひとびとは彼の思考が嵌まるであろう。お決まりのロシア批判に終わるのではなく、客観的に英米の責任や生活危機などのほうを見ていることなど。わたしも思っていたのは、「制裁」とはいったい誰が食らっているのかだ。

また、たとえばエンジニア人口の観点から、ロシアの生産力の実質的なチカラを分析しようとしていたり、アメリカの生産力には弁護士費用なども多額に含まれていて「生産力」という点からはマイナスして計算されていたりすることも興味深い。つまり、「手堅く食えるもの作れる熟練者や生産者をチカラの人口として計上する」点がポイント。

他には、アメリカは家族内部ですら自分が選んだひとに相続させるなど兄弟間の平等には無関心が当たり前なほど自由主義的であり、ゆえに不平等に歯止めがかからない特徴があるなどの分析にも目を引いた。ロシアや中国などは兄弟間の平等という価値観が組み込まれている家族観だからこその政治体制だという話などもあって興味深い。月日をかけて読んだ1冊。


2022年03月分

("Gulliver's Travels" Jonathan Swift)

No. 11『Newton Classics ガリヴァー旅行記』山田直道 監修 齊藤洋子 翻訳(Newton Press、1997)

入門的内容だが古典の概略を素早く知るのに便利である。構成は主に、マンガ、著者解説、英語の原文と対訳。こういうのが20年前は出ていた。

いまはおそらく製作費などの点からネットがその位置にとってかわったのかもしれない。わたしはこの小説を学生のころに読んだので懐かしい思いもあって再び手に取った。やはり紙の本が良い。

旅行記とあるが船は難破してしまい自分だけ漂着できた先での物語である。人気だったロビンソン・クルーソーの形式を継いでいる。この旅行記は匿名で出版されている。政治的な風刺小説だから身の危険があったからだ。

ジョナサン・スイフトは英国随一の著名な作家である。両親はイギリス人だがアイルランド生まれのエリートだがイングランドのほうにアイデンティティを持とうとしていた。

当時、1688年はイギリスは名誉革命がおきて政治的に安定していなかった。カトリック、ルター派やイギリス国教会などのプロテスタント、カルヴァン派の非国教徒、そしてカトリックに反対の民権派ホイッグ党、カトリックでも王権支持の保守派トーリー党がいた。

スイフトも政党に入ったり秘書になったりして、若きイギリス紳士がみなそうであるように、宮廷に出入りした。そのうちアイルランドでイギリス国教会の司祭となる。そして詩や風刺小説を書き、匿名のこの旅行記で大成功をおさめる。政治評論も書いた。

ただしイングランドで主教になれなかったことに不満でありおよそ人間の生活でないとまで思うのだから、けっこう思いつめるタイプだろう。じきにイングランドからアイルランドへの不当な扱いを目にして義憤を感じるようになり、ペンで闘い、アイルランドの国民的英雄となる。

『ガリヴァー旅行記』から英語に取り入れられた単語はいくつかある。たとえば、有名なのは「ヤフー」だろう。「粗野で知性に乏しく無骨な人物」の意味だ。最後ガリヴァーは高慢なやつらが嫌いだと言うことに関連している。

それにしても、このように文学をもって国民的人気を英雄のように得られるというのは、アイルランド国民たちの文化が高度だったからとも言えそうだ。ひるがえって現代人であれば、何百ページもじっくり読んで考えられる、そのような時間があるだろうか。便利それ自体が皮肉であることを思い出す。

・洋書読み10冊目
"Help!" Philip Prowse Cambridge University Press 1999(英語のみ)

売れない物書きが藁にも縋る思いで見たものごとのまた、なんとせつないことだろう。降ってきたのはストーリーではなく、現実の新たなる、しかし本来のストーリーだった。「She was right.」が木霊する。

去年の8月に「Nas Daily」(最初の1000日分とその他)をフェイスブック上ですべて見終えて、洋書読みに入ってから10冊目で語数は4555。総語数計約49400語なので、総計53955語。洋書読みは別カウントにして最後に足す。

No. 10

『一人称単数』村上春樹(文藝春秋、2020年)

"First Person Singular" Murakami Haruki

すばらしい時間だった。十九歳の頃の僕が、いちおうつかめていると自分では考えていたことや、その間にある多くの事象について、愛と死、そのあわい。

目を開けると、すでに多くの物事が過ぎ去っている。あとに残すには心身を差し、自分の首を石のまくらに載せなくてはならない。生きているとは、そういうことなのだろう。わたしならどう思うか?自分の魂のうちわずかなところを結晶にして遺すと考える。

ときには醜い女の洗練性に魅せられ、女性に罵られ、ジャズやクラシックを聴き、過去に愛した恋人たちを思い、この世にはありえない多くの円を眺め、お気に入りの『人生のクリーム』を入れた珈琲でも飲む。場所は、負けて負けてどうしようもないチームの応援席だ。

どれもこれも素晴らしい思い出になった。そういうことが物語りとして体験できたり、共感出来たりして、いつかの夏休みを過ごしたような、爽やかな気持ちになっている。

なお、今回の短編は村上さん本人に思えると言われてるようだが、前にもあることである。村上さんはぼくらなのだ。2010年代~20年代に欠けがちで、けだしかつては満ちていた物事だとも感じられる。


2022年02月分

No. 9 『養老先生のさかさま人間学』著 養老孟司 イラスト さとうまなぶ 
ミチコーポレーション 2021年5月26日

Yourou Takeshi is an emeritus professor of Tokyo University. Anatomy. DMSc. Very popular in Japan. Writes many books of essays.

毎回、適当な漢字一字を選んで養老さんが考える10年間分のエッセイ。対象が小中学校の生徒というだけあって、とても読みやすい。ゆえに深い。さとうさんの漫画がまた和む。

最初に(ある意味、窮屈な)「対人の世界」だけでなく「対物の世界」があるということを教えてくれるのは城攻めの話に繋がりそうだ。答えがすぐには出ないこと、いわばネガティブケイパビリティについて、考え続けること。面倒なことの大切さ。過剰よりも基準・調和を持つ事。

ヒポクラテスの言葉をもって、技は時間がかかると教えてくれる。一見して真逆のものは見方を変えれば同じもの。自己の石油がなかったから原発を造った話。古びた雑多なところのほうが好きな話。昭和天皇による、雑草という植物はない話。大学いくとバカになる話。社会も自分も変わる話。

おもしろい話がてんこ盛りである。ミトコンドリアや中心体が自分のDNAをもつがゆえ、もとは細菌に似た別の生物だったと考えられていることには驚いた。そこで共生と競争が説かれる。競争しているようで共生の過程だったと言えるのかもしれない。養老さんがゲームをするのは知らなかった。

ほか、余裕、遊び、同じ、意識について、興味深かった。余裕や遊びはその通りだと思う。意識と同じについては、これからまた勉強していきたい。なんだか、どれも初めて読んだ気がしない。自分のなかにも染みついているもののように思われた。たぶん養老さんは昔の感覚を今も持っているかたなのだ。

それがきっと、いまの時代に必要とされている。それとは「昔の暮らし」であり、「昔の感覚」とも言えそうだ。昔と言っても地方の農村に育っている我々からしたらまだ今の感覚ではないかとも言えそうだ。ゆえに民俗学と相性も良いのだと思われる。

No. 8

『科学と非科学 その正体を探る』中屋敷均 講談社現代新書
 2019年発行 読書記録

ご自身が原発反対の立ち位置から、一般的な科学者の権威主義や科学の不確実性をもってあれこれと思考し続けるエッセイ、だと思われた。かつてわたしも学習または経験上よく知ったり書いたりしたことだった。しかし今回、中屋敷さんのエッセイを読んで思ったのは、

むしろ、「確度」の辺りから、科学とは、不確実な世界というところで信頼や安全性など確度のようなことを上げていくためにあるのではないかとわたしは思い至った。それは、科学とは不確実性があるから信用しすぎてはいけないと批判する著者の思考と、同じ物事を逆方向から見えてきたことなのかもしれない。

            

No. 9
『ピョートル大帝』土肥恒之(山川出版社)
2013年発行
 

ピョートル大帝(ピョートル・ヴェリーキイ / Пётр Вели́кий)。名前はピョートル・アレクセイヴィッチ・ロマノフ(Пётр Алексеевич)(Pyotr Alekseevich)。ツァーリ(царь、カエサルの意味)、ロシア初代皇帝、大帝の称号。

若い時から古いしきたりではなく、新しい文化に関心があり外国人村に出入りしてスイス人、オランダ人、スコットランド人などと付き合い、2メートルの長身で軍事に関心強く航海への情熱をもち、せっかちな性格でもあり、みずからヨーロッパに行ってオランダの東インド会社で船大工を四か月も学ぶ。

ロンドンではニュートンやハレーに会ったりしている。帰還して、出迎えにいた貴族たちの大事な長いあごひげを切り落としたというエピソードがある(反感を買う)。洋服を着用させ、暦をイギリスのユリウス暦に変え、ヒゲ税を始めた。急激な西欧化、いわゆる「上からの『革命』」だった。

当時の軍事大国スウェーデンとの戦争には「冬のロシア」を味方につけ後に勝利していく。どんどん起きる国内での反乱に厳しく対処して、伝統的なモスクワを中心から外してサンクト・ペテルブルグをスウェーデン人捕虜の多数犠牲をつかった強制労働により作ってしまう(もと沼地で開発が大変だった)。

ロシアは一気に強くなった。こういうことからロシアでは今も人気が高い歴史人物なのである。ただしこれほどの才能をもつピョートル大帝でも後継者問題ではかなり苦労していた。ピョートル大帝の時代(1672-1725)に、古ルーシ(ロシアの古称)から「近代ロシア」を築いた。江戸時代初期。

読み物として大変魅力的な歴史人物である。が、ついていくほうは徴兵制なり税改革なり、相当大変そうである。「西欧化、近代化、上からの革命」と聞くと日本では幕末や明治を思い出すのであった。ピョートル大帝の時代が終わってから約150年先のことである。


2022年01月分

『水木しげるの日本霊異記』水木しげる(角川文庫)
吉田読書記録 20220124 No. 7

日本霊異記というのは9世紀初期に成立した日本最初の仏教説話集だ。中国的伝記類や怨霊の話が載っている。水木さんの戦争体験の挿入部では「がしゃどくろ」が出てくる。野原で野垂れ死(じ)んだひとの怨みが集まった巨大な妖怪だ。あの小野小町も野垂れ死にし、どくろとなった。平清盛は保元平治の乱の犠牲者の怨念どくろに苦しんだ。

ただし普段ひとは生きたドクロに守られ、いつか露わになったドクロに全員なる。その次は塵だ。ひどい死に方をして野垂れ死にというのは、現代では、やはり戦争を思い出す。いろんな地域にガシャドクロが今も居るのかもね。怖いと逃げるよりは思いを寄せるほうが成仏しそうである。もし自分がガシャドクロの一部ドクロになるとしたらどうしてほしいかという想像力が必要だろう。


Immanuel Kant

『カント入門』石川文康(ちくま新書)1995年 
No. 6  20220114 

思索のエネルギー。内面のドラマ。それこそが哲学者だ。

18世紀ドイツの哲学者カント(1724-1804)の書いた有名な書物(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』等)について。

100頁までは大学で哲学や論理学の基礎を学んだ程度のわたしでも理解できる内容でありおもしろかった。つまり、純粋理性批判がわたしにとっては自分でも読みたくなる内容に感じられた。それ以降は石川さんの解説が哲学用語の雪崩であり別の書物が必要そうである。

理性は真理・善・正義の根源とも考えられており、それ自体が批判されることはない。しかし実は理性がひとを欺く本性を持っていることをカントは発見していった。当時のドイツでは啓蒙主義の時代であったから宗教や政治は吟味に付された。つまり疑われた。

理性に対する信仰は頂点であったと言える。それがゆえにこそ、そのうちには理性や合理性それ自体が欺(あざむ)きの本性をもつのではないかと疑われることになったのである。ベーコン、ロック、ヒューム、ランベルト、デカルト、ルソーにも影響を受けている。そうして『純粋理性批判』は始まる。

思うにこれは3・11福島に関する論点も当然ふくまれていた(論理規則のことであり、矛盾対等、反対対立、小反対対立のこと、そして、宗教の権威が低下したぶんだけ科学信仰に陥っているのではないか、真の啓蒙がまだ実現していないことを示している……という石川さんの指摘である)。

ここでカントは欺いている状態や見せかけの状態のことを「仮象(かしょう)(schein)」と呼んでいるようだ。理性とは物事の合理的認識能力をいう。物事を理解し、物事の合理性を理解すること。

話しが戻るが、ベーコンは例えばデマのことなどを「市場のイードラ」と名付けていたりする。

すなわち、理性がもつ「見かけ」を見破り、本質を見抜く、つまり穿(うが)つことがここでは目指されている。太陽が地球の周りを回るように「見える」などの感覚的なことなどの見かけではまったくない仮象を「超越論的仮象」と名付ける。

なぜなら、「絶対」とか言って思考していくとき不合理に陥るからである。むろん「絶対安全」という言葉をわたしは思い出した。「絶対危険」も思い出す。テーゼとアンチテーゼであり相反する話である。これを二律背反(アンチノミー)をカントは名付けた。

(ヘーゲル弁証法はカントに着想を得ていることも分かった)。

カントはアンチノミーとして例えば、「世界は時間・空間的に始まりを持つ」「世界は時間・空間的に無限である」という「絶対」の関わる文を挙げる。宇宙と考えても分かりやすいかもしれない。

しかしこれらの文は実はどちらも成り立たないので、世界は大きさや時間を持たないことになり、世界の総量が「ゼロ」ということであり、われわれの理性は世界を存在しないものとする。おどろくべきことだ。

だれもが認める客観的なことだと考えられていることが実は主観的なことだったと見破ればそれは、本質に辿り着いたことになろう。これをカントは超越論的観念論と名付けた。なお、理論認識の能力としての理性を悟性という。

すなわちカントはここで、テーゼとアンチテーゼに対して裁判官の方法である法廷モデルを用い、空間や時間は主観的性質であって、物それ自体の性質ではないという第三項を見いだして解決する。これはヘーゲルの弁証法に近いものがあると思える。カントの「総合」とヘーゲルの「総合」は違うようだが。

というように、100頁までわたしは面白く2回読んだが、それ以降は通読して終わった。たとえば、道徳や宗教についても論じられていて、ペテロの逆十字架の話(「クォー・ヴァーディス、ドミネー?」も後には出てくる。

ここでは、「親切にされたかったら親切にしょう」など自己への条件付き善でなく、「(無条件に、むしろ迫害の中では死ですらあるにも関わらず)我が民とともにあるべし」ということを達成したから(迫害されて逆十字架で死ぬ)、人々に感銘を与えたのだとカントは考えた。

全般的に論理学が出てくるので、たとえば命題という用語だけでも覚えても良いのかもしれない。命題とは、論理学に置いて、言葉で表現され、真や偽としえる判断、主張、文章の意味内容だったりする。例えば「ソクラテスは人である」など。

この本が出るまでカントについては新書がなかったのはカントの話が新書サイズに合わないからだろうと石川さんは言う。その通りなのだろう。それでもイマヌエル・カントの思考についてさらに深く学べて良かった。



20220109

『老人と海』ヘミングウェイ、福田恆存 新潮社 "The Old Man And The Sea" Ernest Hemingway #吉田読書記録 No. 4 20220109

すばらしく熱い。老人は母なる海に抱かれ、みずからの精神的体力的な限界を超えることを冷静に見続け、鼓舞し、男らしく戦い続ける。

なんのため、名誉のため。少年は我が子同然だ。友情と言っても良い。記述的には闘争的肉体部分が長いのは読者も闘争するためだと言えるのかもしれない。ハードボイルド。

知識ある福田氏解説のおかげでヘミングウェイの思考のうち分かりやすい部分を再認識できた。善や正義への懐疑など、3・11から始まる10年を通してわたしも近いものを思った。そして身体的、行動的。

大熊に居た時は少し読み、会津に暮らしていたときには英語版を読みながら途中まで和訳も読んでいたのを今回は最初から日本語のみ数時間で通読した。


20220106

No. 2

『昭和史 第1巻』水木しげる(講談社文庫)#吉田読書記録 No. 2

船の飯炊きに無理やり連れていかれる豊は、そのうち船が嵐にあって死んでしまう。「菓子がほしいな」と言うと母はいつでも「豊をみろ」と言った。

庶民が不景気になるということは今ならばコロナ禍を思い出す。その子の名前がまた「豊」とはまったく。


No. 3

『昭和史 第2巻』水木しげる(講談社文庫)

『東条はバカまじめな男だった。そのせいか国民からも笑いは消え、「ほしがりません勝つまでは」とか「ゼイタクは敵だ」という標語にかこまれ国民はいつしか重い苦しみに包囲されることになる。』





No. 4

『ヘーゲル』中埜肇(中公新書)1968発行 #吉田読書記録 20220106 No. 4

「発展過程の中で最初にあるもの(A)が定立(テーゼ)(正)であり、それの否定として生じ、これに対立するもの(非A)が反定立(アンチテーゼ)であり、これを否定することによって両者の対立を統一し、矛盾を克服した段階が総合(ジュンテーゼ)(合)であるというぐあいに弁証法が定式化される…」この本は難しくないが一週間ほどかけて読んだ。学生時代のヘーゲルたちがある令嬢に賛美を贈った。その女性の名前がアウグステ。ふと、この名前を前に見たなと思っていると、エンツェンスベルガーの本だった。時代も近い。ちなみにヘーゲルのあだなは「老人」。


20220105 No.1

『西田幾多郎』永井均(角川ソフィア文庫、2018年)

記憶や、予想や、空想や、思考などをしている私というものはない。存在するのは「~していること」だけなのであり、それらが同じ場所(名づけるなら私)に起きているから一緒に感じられるのである。

この本は最初が読みやすいのだが、途中ぐらいまで眩暈をしなが読めるものの、最後までいくころには相当にふらつく状態であり、いわば、かなり難しい。『カント入門』(ちくま新書)を読んでいる途中でもあるから少し分かったところもあるが。特にデカルトも出てくる。

ただ、難しい議論を抜きにしたら、最初だけでも読んだら面白い。川端康成の『雪国』で、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」を引用して、主語が明示されていないことを指摘し、だから英訳をしづらいと来る。日本語では自然な表現。ではいったい何が抜けるのか、という話。

読むのが難しい理由はおそらく最初に難しい文章が来て、後からその難解さを解くカギが提示されているという構造が全般的に流れていることもあるのかもしれないが、そもそも哲学用語が多いこともあるのだろう。

ほかの永井さんの本を読むことと並行したり、一周目の途中からは感覚的に読むのが、よいかもしれない。言葉で書かれてはいるが感覚的な表現にも思える。それはきっと、ある西田幾多郎さんの用語「純粋経験」などのことを表現するからなのだろうと思われる。

疲れて途中で眠ったりしながら4時間ぐらいかかった。すべて理解するのは、これはこれだけ読めば10日や一か月などで理解できるものではないかもしれない。だから感覚的に読むのがよいと思われる。

副題についている「言語、貨幣、時計」という言葉で一般的になされるイメージとは違う内容の気もする。まさに哲学書。

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