和文日記2020

20201218
まだまだ、段取り暮らし。

・写真
冬だ。こちら手前の部分は家庭菜園だが砂質が多くなった部分(すでに緑肥を植えている)。土地に根差した栽培の結果を得たいので肥料後入れで、こちらにもにんにくを2種類あえて栽培している。日本の北方系と南方系にんにく。

だだっぴろい。もと果樹園が奥。この、手前の部分にはかつて鶏小屋とかビワの木とか梅の木や母の作るイチゴやメロンやスイカや、薪(まき)や堆肥場などもあったり、農機具のための建物があったり、田植えのためのハウスが2棟あったりした。

巨大すぎる破壊が、わずかな創造の開始か……、新生する町には新しい暮らしかたがあるだろう。足が太く筋肉質になって、シャドーのジャブが良い形に速くなり、静かな暮らしに元気でいられている。感謝

* ある大学生から論文の取材を受けた。
いくつかしたお話のうち一つだけ書くと、(福島はベキ論よりも先に)「ひとはそのまま居てくれたらそのこと自体が素晴らしく、敬意であり、普通の暮らしこそが復興でもある」という話をした。たいへん爽やかなかたである。

「最後の一人が笑顔になれば復興だ」とは、2015年ぐらいに思い立って言っていることでもある。震災後はじめて自分のパソコンでビデオ通話『ZOOM(ズーム)』を使用した。これからこれをみんなが使えると良い。

* 雑談
さすが朝倉未来選手が勝つだろうと思っているとまさかの判定負けとなった。あの選手にさえ予期せぬことがあるのだ。爽やかに負けを認めて格闘を楽しんでいた。恰好いい。のむシリカのCMもいい。いつか飲んでみたい。

SNSは他人と比べてしまうから悲しくなるというウェブ記事を見た。分かる気がする。しかし団栗の背比べだ。Amazonのジェフベゾスは15兆円も持ってベゾノミクスをして生活全般を提供する。原発事故だけで日本も20兆円を使えるには使えるが。

2020年の秋から、政府は各省庁のシステムについて4~8年で原則クラウドつまり、たとえばネットに置いて便利に利用する方針を打ち出していると日経新聞が伝えていると思う。それをAmazonウェブサービス(AWS)に依頼している。あらゆる情報をだ。

* 行動の整理
最初に結論を書くとわたしのやりたいことは、いま、雑誌と読書と語学と運動とYouTubeと仕事である。また1つか2つ、資格をとりたいかもしれない。それ以外のことに気を取られないよう考えをまとめておきたい。

* これまでの文書
2017年初頭に小さな日記帳とfb日記を始めたときから、1テーマ1投稿でない短文日記な投稿を毎朝するようになって、2019年から柔軟性ある書き方で週一の長文投稿になっている。たまには伝わりやすくテーマ投稿を書いても良いのかもしれない。

* さいきんYouTube講義
しかし突如、2020年の末からはYoutubeラジオを毎日にした。成長の効果は覿面だ。Youtube解説部にも文章を書いている。何百万人のメジャーリーグでなくとも、どなたかに聞いてもらえるのがこころよりうれしい。他のメジャーを見るに30分など長い。わたしは目標3分が重要だと思う。

3・11東日本大震災と原発事故の10年目になって、やっと少しずつ復興工事が始まり、むかしの大熊町の建物や風景が次々と消えていく中でも、むかしの日本を知ることは、自分のなかに具体的な想像力をもてる。イマジン。

* 行動してないこと
出版社で本を書いたり学会で研究をしたりということを現在していない。研究員は休眠している。無理してでもと思ってない。この2年ほど思うに、いつの間にか物書きと言ってもメジャー志向で単著どうと思わなくなった。自分のやりたいことが続けられていればあとは普通に暮らすのであり義務感はない。

わたしは無名の一般人でありどちらかと言えばあれもこれもなタイプなのであり、今すぐ何かの分野にスペシャルでない。なのにやたら出版社から本ばかり書きたいと思っていたって、じゃあ何をテーマに1冊厚いのを書きたいのというと、まだ無い。

自分で出せればいい。避難関係のことなら書けるが、震災前のほうなら既に書いた原稿があるから心配ない。ただ震災後のほうは大変だ。まったく楽なことではない。しかしそれも、一部ならすでに幾つかの出版社で発行してもらった。

編集者として大勢の人達の原稿も出せた。この高速の時代に光栄なこと。だから、さらに出すとか活動とか有名とか、何かに成ると考えていない。わたしはわたしでありたい。

* やりたいこと
自分がやりたいことは今は少部数で雑誌だから、基礎を小さく続けていきたい。日本語も含む、山ほどの語学もしっかり継続したい。YouTubeむろん。こうした、日々のやりたいことの根本に、経世済民の志が少しある。

ほか、雑多のほう、「雑」の日常という修行をとことんし続けることのほうが身の丈にあっていて、セレンディピティも得られたり、楽しいのである。ひとの一生は過程に真実がある。安易に目立てないことにこそ必要な段取りの年月がある。

* 短文エッセイ
表現の先達から学びこそすれ、依頼心は持たないようにしなければならない。かといって離れず、自分は、自ずからの分際を持って、怠けず素直に身の丈に合う修行がなにより良く、過不足ないであろう。

なんて考えていたら、先輩からお声がけ頂き、ひとつ短い原稿を寄稿できた。そう言えば前に受賞したのは短文エッセイであった。こども教育の会社社長と致知出版の人達が選んでくれたように記憶している。

合計すれば若いころ15年間、こどもたちに大熊町や富岡町や旧原町や旧小高町など(いまの南相馬市)で教えてきたこともあり、とても嬉しい。そもそも賞に出したことなどない。たまたま妻が出してみたらと言ってくれたからサッと書いて送った。

『街の底』(裸足の音楽社、2015年)という曲で「街の底!」「生きてる!生きてる!生きてる!」「黄昏の花と夢!」と叫んでいるのはeastern youthである(https://www.youtube.com/watch?v=7ilUtaTAMxI)。わたしが二十歳頃よく聞いたのは『静寂が燃える』(2000)。

撮影:吉田博子


20201205
「カエルかえるカフェ小川町店」に行けた。この日は「自家焙煎珈琲工房Toco Toco Coffee」にも行けた。ずっと行こう行こうと話していたから嬉しい。福島は被災地なれど10年という時の節目を迎える。経験が豊かになった。これから、より素晴らしい時代になるよう暮らしていきたい。

友人や妻の勧めもあり12月1日からYoutubeに黒板なしで大人の学問を短く分かりやすく話すことを始めた。音声のみ一発録り。解説文書も書く。現代の忙しい生活のなか聞いてくれるひとが一人でもいたら幸い。わずかSNS広告も時々はして場をさらに開いていきたい。
第一回は特に内容が重要。

たとえば民俗学……。近代の競争社会では、学校の勉強と部活または仕事が、ひとの日常を朝から晩まで占領している。ゆえ幼いころから学ぶ機会がなかった「むかしの暮らし」がたくさんあって、人類の英知だと言って良いだろうそれを、どう取り戻していこうかと。わたしはたくさん聞けたほうだろう。

いろんな人たちが話したり聞いたり過ごしたりを持ち寄れる村の囲炉裏みたいな場所として「Facebook」や「Youtube」を考える。未来が不確実な時代には、いつかどこか、でなく、いま、ここ、「SNS村」で取り戻せたらと思う。リアルはリアルで大事にしながら、新生活様式のひとつとして、文化を盛り上げる小さな一助になりたい。

ラジオ的に音声を聞いて考えることは頭に効果的なのだそう。わたし自身が「話せる段階まで読み込み、要約して、話す」の順で勉強になり「後で聞いて」確認して再び勉強になっている。読みのちからと話しのちから。

12月1日というのは、日本における映画の初公開1896年(明治29年)11月末を記念した「映画の日」でもあり、わたしのほう今は音声だが動画もできるYoutubeということでは映像つながりがあった。

映画の最初は一人ずつ見るキネトスコープ(Kinetoscope)から、そのうちに大勢で見るシネマトグラフ(cinématographe)になって現在の映画になった。

今年はコロナ報道が非常に増えて一年を棒に振ってしまったほど思考や友達と会う時間を奪われた気がして、ついでにオリンピックで放射能がどうこうという事にも気分的に振り回されたような気がしていた。

なのでニュースを見る過剰な時間を減らし、積極的に【映画】を見て楽しんでいる。映像作品を最近は『孤独のグルメ season 1』(テレビ東京、2012年)を見ている。松重豊さん出演。かれの絶妙な演技は食べることを楽しくさせてくれる。

11月末、NHK『あさイチ』にロックバンド、エレファントカシマシの宮本浩次さんが出ていた。1966年生まれ。宮本さんが出ると場が爽やかな気分になる。『ハレルヤ』という曲はじんわりと元気づけられる。

ふだん宮本さんは本を読むという話が出ていた。かれの歌詞で「お前正直な話率直に言って日本の現状をどう思う?」から始まって「繁栄という名のテーマだった」「化けの皮剥がしに出かけようぜ」「胸を張ってさ」などの言葉が入っている曲『ガストロンジャー』(× Dragon Ash)をわたしは好んでいる(参考1)。

ところで「政府は2030年代半ばに国内の新車販売を全てハイブリッド車(HV)や電気自動車(EV)などの電動車に切り替え、ガソリン車の販売を事実上禁止する目標を打ち出す。」(引用1)

だそうだ。いま1%のEV普及率で可能なのだろうか。いずれにせよこれから、わたしがトラクターの手入れ以外で発動機、つまりガソリンエンジン学習は少しにして、電動機、つまり電気モーターを学ぶべきなのだろうか。

大熊町でごく小さなニンニク畑2カ所を作ったのでそれを観察しにいくと、植える前に肥料など通常やるものをやらないで実験していたからだろう。やはり、栄養不足になっていたと思われる。葉の一部に黄色いものがあった。肥料をやって帰ってきた。どうなるか続けて観察していく。芽が出ていたのは良かった。いわきでも植えている。

農林水産省が発表した今年の農林業センサスによれば、主に農業をしているひとは35年前1985年には346万人だったが今年は136万人ほどだそうだ(参照1)。ぎょっとする数字だ。ふだん何気なく食べているコメ、野菜、お肉などの食べ物は、これからも同量であり続けられるのだろうか。食料自給率は今ですら低い。

大熊町では10月ぐらいにクマが出たという情報があって、看板が立っている。防災無線では繰り返し「クマを見かけたらすぐ逃げて」と呼びかける。県自然保護課によれば県内の生息域は会津と中通りの山間部が主だそうだが、浪江町や富岡町などでも毎年のように目撃情報があるそう。ならば大熊町で出ても不思議ではないものの、今のところ目撃情報は1件もないため、映像はネコだったのかという話もあがっているらしい。

辞書によると、「ね」は鳴き声の擬声、「こ」は親愛の気持ちを表す接尾語だと説明されている。なるほど、これは、馬のことをマコ、蚊のあれをカコというのと同じことなのだ。つまり、「ニャンこ」ぐらいのことなのである。

いつでも朝日と夜空の月は美しい。

参考文献
参照
1、『農業従事者、40万人減少 20年調査、65歳以上7割』共同通信 2020年11月27日 「農林水産省が27日発表した2020年の「農林業センサス」によると、農業を主な仕事とする「基幹的農業従事者」は136万1千人で、15年の前回調査と比べて22.5%、39万6千人減少した。65歳以上が占める割合は69.8%となり、4.9ポイント上昇した。比較可能なデータがある1985年時点の346万人から一貫して減少が続いている。」
https://news.yahoo.co.jp/.../9ecf54621ee65c755e3b082d9498...
2、『[大熊町大川原 11月] クマ 本当にいるの?』鞍馬進之介 読売新聞オンライン 2020/11/21
https://www.yomiuri.co.jp/.../CO040531/20201126-OYTAT50012/
引用
1、『政府、2030年代半ばにガソリン車新車販売禁止へ 欧米中の動きに対抗』山下貴史 毎日新聞 2020年12月3日
https://mainichi.jp/articles/20201203/k00/00m/020/001000c


20201202
人間てのは傷つきやすい生き物だと思うのだよな。自分になんて何の価値もないっていう風に。People are sensitive and easily hurt, wanting to get approval from others. (と投稿したらアメリカの友達が、あるがままの自分を承認することが大事だと感じる、と教えてくれた)。

20201128
すばらしい仏像だ。祈りを捧げた。

あれこれ調べて行ったら、いわき市小川町とのご縁が感じられるようになってきた。その所以を以下に書き記しておくが今回は堅めの文章が長くなってしまった。

いわき市小川町にある長福寺にお参りした。1322年に地頭小川入道義綱が鎌倉極楽寺の慈雲和尚(じうんおしょう)を招き入れ開山される。長福寺は全国に多々ある。

境内を妻と散歩して豊かなひと時を過ごせた。「うしおととら、というマンガがあってね」などと、このお参りをした同時期に話していたことも追記する。

『うしおととら』藤田和日郎(小学館)は、1990年から1996年に連載されていた漫画であり、わたしの10歳から16歳を濃厚に形成した。今までに3000万部も売れているというから日本の民俗的な何かを育てたと言えるほどだろう。


いわき市小川町の長福寺は、東北における真言律宗の中心道場として栄え、岩城家代々の帰依を受けた(信仰された)。すなわち、小川諏訪神社と同じ年、同じ地頭なのであった。真言律宗は空海が祖である。空海に関する本をまだ少ししか読んでいないので精進したい。

真言律宗の本山は、かつては農村地帯だった奈良市西大寺芝町にある西大寺(さいだいじ)である。高野寺(たかのでら)ともいう。本尊、釈迦如来。平城宮の西方に位置し、東大寺に対して西大寺と称せられた。

西大寺の創建は764年の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の鎮定を祈願して孝謙上皇が四天王像の造立を発願(ほつがん)したのに始まり765年。孝謙上皇とは、後の称徳天皇のことで、法相宗の道鏡と関わりの深い女帝である(没後、道教は左遷され栃木県で没)。


それではこの長福寺を始めた小川義綱はどのような家柄の人物なのか。いわき市立総合図書館によれば(参考1)、小河義綱(小川三郎とも)と称したようだ。父が佐竹義胤、母が岩崎氏女で、常陸の佐竹公と関係の深い人物なのだそうである。

茨城県すなわち常陸の佐竹氏というのは、清和源氏の一支族とのこと。なかには新羅明神で元服し新羅三郎(源義光)と号した人も居る。この珍しい名前を名乗ったひとは誰なのか。
後三年の役(1093~1089)のとき、兄である源義家が清原氏と争い、苦戦していた。そこで官を投げうって陸奥へ救援したのだそうだ。常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に所領を得て佐竹氏と名乗る(参考2)。

なんと源義家の弟であった。
義家と言えば、2011年の冬、原発避難していたとき、いわき市好間工業団地にかつてあった大熊町第一仮設住宅のすぐ近くにあった山桜と義家の歌を思い出す。間違ってないといいのだが、山桜は「勿来の関(なこそのせき)」から移されたという。散歩のときに和歌を暗唱した。

「吹く風を勿来の関と思へども道も背に散る山桜かな」源義家(1039~1106)


しかし常陸の佐竹氏は、1600年の関ケ原の戦いで曖昧な態度だったので秋田に移封(いほう、領地を移す)されてしまった。それでも幕末では東北でありながら奥羽越列藩同盟ではなく官軍について明治を迎える。

移封された先である秋田には、久保田藩(秋田藩)があり秋田氏が居たのだが、関ヶ原の戦いのあと茨城県(常陸)に移される。すなわち、佐竹氏と交換されたのだ。

その後、秋田氏はどこへ行ったかというと、なんと江戸時代初期に三春藩(みはるはん)なのであった。現在は福島県にある田村郡三春町のことだ。

相馬中村藩のお姫様が三春藩の殿さまに嫁入りするとき、現在の田村市都路町の一部である旧・岩井沢村など幾つかを三春藩領に化粧料として差し上げたという。岩井沢は三春領になったのだから、秋田氏が来る半世紀ほど前に相馬領内として岩井沢に居た吉田家も近い話になる。


三春というと雪村周継(せっそんしゅうけい)だ。彼は佐竹氏であったが禅僧となる。雪舟の水墨画を学んで画僧となったひとである。1504年ごろ常陸に生まれ、1573年ごろから三春に隠棲する。雪村も吉田移動の直後だ。

わたしが雪村を知ったのは震災後だ。(現在)福島県立博物館副館長である川延安直さんが雪村の本を書いていたことも知って、読んだのだった。震災前から実のところ私は墨書が好きであった。特に水墨画はよく同博物館で鑑賞したのを覚えている。

すると、中世に我らが吉田家が三春領(といっても現在での三春町でなく田村市の一部)から隣の大熊町に領内移動した可能性が高いその後すぐに秋田氏や雪村が三春に来たということになる。秋田氏と吉田家は、時代こそ違えど、同じ藩の領地に暮らしていたということになれるのだろう。

では秋田氏とは誰なのか。1051~1062年に前九年の役で敗死した俘囚長(ふしゅうちょう)である安倍貞任(あべのさだとう)を祖として、初め安東氏(あんどううじ)を名乗ったとのこと。安倍氏は蝦夷を統括していた。


話を戻して、小川義綱の先祖であった源氏のひとが名前につけることもあった新羅明神(しんらみょうじん)とはどのような神なのか。

滋賀県にある園城寺(おんじょうじ) (三井寺、みいでら) の守護神の一つだそうだ。元来はこの地方の地主神であったと言われる。広くは新羅国の神だそう。新羅国というのは、668年に朝鮮全土において最初の統一国家となった国である。

新羅明神は、空海の姪の子である円珍(えんちん)(814~891)が唐から帰国のとき新羅明神が船首に出現して仏法を日本に垂迹(すいじゃく)すべしと命じたことによる。円珍さんは讃岐のひと。空海の姪の子だが天台宗である。

新羅明神は、蕃神(ばんしん)とか客神(きゃくじん。まろうどがみ、客人神)と呼ばれる。渡来してその地で信仰されるようになった神のことだそうだ。客神と言えば大熊町で高校生の私がバイトしていた居酒屋の名だ。

そうして話をまとめ復習していくと、この長福寺は、鎌倉、奈良、滋賀、香川県(讃岐)、唐(中国大陸)、新羅(朝鮮半島)、茨城、秋田、栃木、蝦夷、三春、いわき、空海、大熊町と真言宗の私たち、というように関係していることになり得るだろう。


そうか、自分たちにもご縁が感じられる気がしてきた。それに、諏訪神社が小川町にもあるし大熊町にもある。じっさい今ここに来て空海を祖とする大きなお寺や諏訪神社にぼくらはお参り又はお詣りしている、その祈りこそが関係なのであった。

参照

1、レファレンス協同データベース 国立国会図書館 いわき市立いわき総合図書館 (2310140) 管理番号 いわき総合-地域295 2015年2月12日 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000167814
2、常陸佐竹氏 茨城県立歴史博物館(水戸市)ウェブサイト 
3、垂迹 デジタル大辞泉 小学館 《「すいしゃく」とも》仏語。仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮に日本の神の姿をとって現れること。


20201124
うまいラーメン屋を見つけた。いわき市平下平窪にある「麺処 瓢たん」(めんどころ ひょうたん)だ。無化調ラーメン店。天然だし。会津とも繋がる。写真は博子さん撮影。※現在お店はお休みに入ったようです。

それからいつの間にか、いわきの詩人「草野心平」の生家にぼくらは辿り着いた。草野心平が小さいころ会っていたという近所のボランティアのかたが居てあれこれと展示の写真を見ながら教えてくれた。

普通の生き方というよりは変わった人だったという趣旨のことを言っていたように思われる。感謝。心平は明治36年(1903)生まれ。ここに来た後の小川町はまた風景が違って見えた。

時代区分の参考
江戸時代1603年
明治時代1868年
大正時代1912年
昭和時代1926年
平成時代1989年
令和時代2019年

さいきんコットンの腹巻(Cotton belly warmer, Haramaki)を買った。今まで寝ていると暑くて布団をはいで腹が冷えて起きていた。黒色が現代的と感じさせる。腹巻と笑うなかれ。ちょっと別人感はあるものの素晴らしい温かさ。

コットンと言えばWELTGEIST FUKUSHIMAにてライターの高田緑さんが二本松市でコットンツアーに参加した記事を書いたり、編集者の伊藤千惠さんも書いている(参考4、5)。

今年はコロナ禍のため旅行などをほとんどしていない。相当に減っている。海外では韓国が陽性者数は少なそうで、台湾は非常に少ないようである。福島県内でも現時点1か月で100人など陽性者数が非常に少ない。それは安心材料だがマスクは欠かさないで暮らしている。全国全世界の人々が笑顔になる政策を希望したい。

このところ家でなんらかの映画を少しずつ観るのが楽しい。今回はミシェル・アザナヴィシウス監督(Michel Hazanavicius)の『グッバイ・ゴダール!』(Le Redoutable)(2017)を見た。その時期ゴダールの妻であったアンヌ・ヴィアゼムスキー(Anne Wiazemsky)の自伝的小説が原作のようだ。

革命が革命が全ては革命がで他のものがゴミ同然に見えるぐらいのゴダール(Jean-Luc Godard、1930年~)という設定で一時期のゴダールをコメディにしたものなのだろう。これは政治に活動し続けている人達が見て損はないだろうと思われる。ゴダール役はルイ・ガレル(Louis Garrel、1983年~)。アンヌはステイシー・マーティン(Stacy Martin、1990年~)。

会津若松市でも映画づいたときがあったのを思い出す。『スパルタカス』シリーズを借りて見るのに、古川町のゲオによく行った。門田町のとんかつ店「むらい」に行ったりミニストップも行ったし喫茶店エスポワールも行った。

あのあたりで言うと中華料理の「大三元」や「利喜」やラーメン店「頓珍館」や「はせがわ」にも行った。どこも個性あるのだが、自分が好んだのを1つだけ挙げるなら「とんかつ しおえ」のラーメンとソースカツ丼である。ホームセンターのカンセキも雪かき道具や熊よけ鈴などで行った。

Facebookにて今月、会津電力の会長である佐藤彌右衛門さんが環境大臣である小泉進次郎さんの番組を肯定的にシェアしていた。大熊町の町長である吉田淳さんがおこなった令和2年度(2020)の施政方針にあるように、再生エネルギーを進めている大熊町では『2050ゼロカーボン宣言』をしていて、小泉環境大臣が立ち会っている(参考7)。

大熊町役場ウェブサイト曰く「大熊町は、原発事故を経験した町だからこそ、原発や化石エネルギーに頼らず、地域の再生可能エネルギーを活用した持続可能なまちづくりに取り組み、私たちの子ども、孫たちが誇りをもって語れるまちを目指します。」(参考2)

世界各国が脱炭素社会を目指している。具体的には、電気自動車EVや蓄電池などの普及をより支援していくそうだ。たとえばEVについて日本はまだ普及率1%に満たない。ドイツやフランスは3%ほど。中国は約5%。ノルウェーは50%以上。産油国との貿易的なことも影響を受けるだろう。

小泉大臣いわく、「原子力についても、出来る限り依存度を下げていく」(同番組から引用、15分50秒から)、で、それが総理の方針だから環境大臣として(略)、ということだそうである。消費者の人達に関しては、再生エネルギーを積極的に契約することを後押ししたりもするようだ。

さらに、日経新聞によれば、大臣は「石炭火力の技術開発については、二酸化炭素(CO2)排出ゼロを追求すべきだとの考えを示した。」とのこと(引用1)。

このあいだ、11月11日の福島民友新聞にて、北方風土館長の赤坂憲雄さんが脱原発と再生エネそして分断を超えていくことへの思いをお話になった記事を思い出す。

パーセンテージに入るか分からないぐらい少ないだろう農家にとってはどうなるか。まだトラクターなどで電気関係の農機をたくさん使用している一般の人々というのをわたしは聞いたことが無い。高価そうだ。充電時間もかかりそう。しかし、運転時に負担となる振動や轟音は、減るようである(参考3)。

写真家の柴田慶子さんが岐阜県で個展を開いている。機会あればぜひ行かれたい。柴田さんの写真は極めて感性に響くものがあり、WELTGEIST FUKUSHIMAにも何度か掲載させていただいた。【揖斐川町春日 森の文化博物館特別展 11月15日~11月30日】(参考6、11)。映像作品も素晴らしい世界観なので巻末参考からリンクをぜひ。

なお、わたしが政府や地方自治体の話を端的に書くことがあるのは、基本的に、政策論争ではなく、生活に関わる【制度の話】を押さえておきたいからである。ふだん仕事や趣味で忙しく、標準や制度的な話を自分で調べたりしてる暇のない非常に大勢のひとたち向けの入門ニュースとして貢献できれば幸い。

写真にある「馬」を逆にした「左馬(ひだりうま)」は、馬は左側から乗ると倒れないとされたり、また「うま」を逆さに読んだ「まう(舞う)」が祝い事を連想させるためなど諸説があるそうだ。ウに濁点はヴェルト(世界の意味)のヴ。鼻濁音で半濁点は「んまい」のウ゜ (参考9)。世界がうまくいきますよう。

普通は人が馬をひいていくところを、逆に馬が人をひいてくる(=招き入れる)ということから商売繁盛に繋がるとのこと。確かに、うまい、うまく、うま……、ちなみに、発音上の「んまい」は表記で「う゜まい」と書く(旧文部省、参考9)、いいことづくしである。

なお、その旧文部省の書物によると「めぐみ」は「めく゜み」とも書く場合がある。[ng] や [ŋ] と書かれるのかもしれない。つまり、Megumiなのか、Mengumiなのか、地域によってはローマ字表記が変わることもあり得そうだ。

柴田慶子さん個展開催にあわせて早めに日誌を作成した。

参考
1、『小泉環境大臣「脱炭素で大競争時代」』NIKKEI日曜サロン テレ東NEWS 2020年11月22日 https://txbiz.tv-tokyo.co.jp/txn/news_txn/post_215221/
2、『大熊町は「2050ゼロカーボン」を宣言しました』2020年2月29日 大熊町役場ウェブサイトhttps://www.town.okuma.fukushima.jp/soshiki/kikakuchosei/13553.html
3、[『電動トラクターが試験走行・愛媛新聞』2012年7月 Youtube  ehimenp https://www.youtube.com/watch?v=NnMqbA2arnY
4、『「コットンツアー2017.10 綿の収穫@二本松市」に参加して』高田 緑 WELTGEIST FUKUSHIMA 2017年11月7日 http://weltgeist.info/?p=14040
5、『コットンプロジェクト福島の製品をエシカル&オーガニックマーケットで』伊藤千恵 WELTGEIST FUKUSHIMA  2015年7月 https://weltgeist.info/?p=7269
6、写真展の告知と映像 柴田慶子 Facebook 2020年11月
https://www.facebook.com/keio.shibata/videos/3588605867885028/
7、『2020年度施政方針』吉田淳町長 大熊町役場 2020年4月1日掲載 https://www.town.okuma.fukushima.jp/site/mayor/13971.html
8、『馬文化ひだか:馬を学ぶ:馬の雑学:幸福を呼ぶ「左馬」』北海道日高振興局 2019年11月25日
http://www.hidaka.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/umabunka/05-manabu/04-zatsugaku/05/index.htm#:~:text=%E5%8F%A4%E6%9D%A5%E3%82%88%E3%82%8A%E9%A6%AC%E3%81%AF%E7%B8%81%E8%B5%B7,%E3%81%8C%E8%BE%BC%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82
9、『文部省制定発音符号』文部省 編 昭和19年(1944)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126364
10、無添加に関してSNSにて意見があったので追記しておきたい。むろん筆者吉田は、化学的なものと自然的なものとの間に論争があれこれ起きていることは承知している。
11、柴田さんは春日に関する写真展によって昨年、第三回、epSITE Exhibition Award (EPSON)を受賞した。https://www.epson.jp/showroom/marunouchi/epsite/gallery/koubo/award/03/comment/ 受賞者インタビューもある。キーワードは「古代の光」「気配」「魂」だと思われる。https://www.epson.jp/showroom/marunouchi/epsite/gallery/koubo/award/03/interview/

引用
1、『温暖化ガス「火力発電でもゼロ追求すべき」小泉環境相』
日本経済新聞 2020年7月3日https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61116000T00C20A7I00000/





20201122
ため息するほど自然が心地よい。鳥のさえずり、太陽のひかり、空の青さ、花の可憐。ただ存在して居るだけで素晴らしい。今週は実家の掃除をした。

しばしば髪の毛を後ろで箒のようにポニーテールまたはタイドバックにしていると、先史時代か原史時代のひとはこんな気分だっただろうかとすんすん歩いていた。

蘭学が気になるのでオランダ語をやってみることにした。そのかわり進んでないアイスランド語を休むことにする。フレンチポップ 「Acrobates」( L. E. J )(2018)を聞きながら(参考4)。

屡(しば)とは、繰り返す意味だそう。
「清き川原に千鳥しば鳴く」〈万・九二五〉
なお、「屢」もシバと読む。

きのうNHKで三島由紀夫が放送されていた。三島さんと違いわたしは少ししか筋トレをしなくなった。見た目の美も良いが故障せず使えるほうが身体は重要だと思っている。

ゆえマラソンとシャドーボクササイズは継続している。素振りと握力もしていきたい。日々15kmランで最近やっと12000kmを超えた。すべて繰り返すことで良い鉄の鍛えになって、ジャブも速くなる。

ちょっとした護身術ぐらいの感覚である。シンプルに身体能力が上がっていくと気分が良く、地道で謙虚に暮らしたくなるということなのである。自我肥大せず等身大で居られる。
10月の毎日新聞によればコロナ禍では換気が重視されて焼肉店の売上が急回復とのこと、ぼくらもそう考えて最初から行ってる。どのぐらいの効果かは知らない。

3・11を経験中だからこそ万が一に備えての準備行為は非常に増えたと感じている。緊急事態グッズだけでなく、護身用具も重要だ。大熊では珍しくクマが出たらしいので対策をしておきたい(専門的なサイトを見ることをオススメしたい)。

いざというときの準備行為が増加している人のことをサバイバリズム(Survivalism)とかプレッパー(Prepper)と米国では言うそうだ。昔は缶詰や「D I Y」だろう。今はウェブ2.0があるから何事も豊富である。

ネット情報によれば、火器などに加え農場や牧場や小さな町機能をもったシェルター的な場所の会員権を持つ都市部のエリート富裕層もいるらしい。この手のことは際限がない。シンプル化も重視したい。

福島に居るわたしの場合はイズムでなく当事者だから海外から見れば英語で福島のサバイバーなのであろう。といっても人間、必需品や緊急準備だけで生きているのではない。

お洒落や意匠(いしょう)なども大事にしたい。今回は、ヘアスタイルについて少し学んでみたい。コロナのため数年ぶりに髪の毛がロングになり意識されている。

西会津町出身の渡部鼎(わたなべ かなえ)という医学者で衆議員にもなったひとは、石川暎作(アダム・スミス『富国論』を翻訳した)とともに、明治18年(1885)、「婦人束髪会」を創設した。

それまで日本女性の髪型は髷(まげ)を結う日本髪(にほんがみ)だった。日本髪を結うには、形が崩れないようにびん付油を使って髪を固めるので、手間もかかった。

よって、女性の衛生かつ自由のため、束髪を勧めた。2人の活動は瞬く間に全国に広がり現代の理容の礎を築いた。女性たちは安眠しやすくなったという。イギリス結び、イタリア結びなど普及もしたようだ。

あの野口英世が幼いころに負った左手の火傷の手術をしてくれたのも渡部である。(参照1)すなわち、ヘアスタイリスト美容業界と医療業界は福島県に来ると大きな学びが得られるのだろう。

髪の毛というと明治に「散髪脱刀令」(さんぱつだっとうれい)という法令が制定されている。内容は以下だ。

『1871年(明治4)8月9日、政府が開化政策の一つとして発した散髪・脱刀の自由をうたった法令。散髪については幕末からすでに行われ、「半髪(はんぱつ)頭をたたいてみれば因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする。惣髪(そうはつ)頭をたたいてみれば王政復古の音がする。ジャンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」と流行歌(はやりうた)にあるように、(改行吉田)

民衆には喜んで受け入れられた。しかし、旧士族層には反発する者もあり、76年にはこれに不満な教師たちが辞職願を出して閉校するという小学校も熊本県では生じている。また散髪の風潮が婦女子の断髪をも促し、そのため東京府は72年「婦女子散髪禁止」の告諭を発している。脱刀についても強制ではなかったが、76年帯刀禁止令(廃刀令)によって軍人、警察官以外は禁止となった。
[猪飼隆明]』(引用1)

ほかの事典で同じ項目はこうある。
「明治政府が出した,髷 (まげ) を落とし帯刀しないことを自由にした法令 1871年公布。散髪は文明開化の象徴として武士から商人・農民にも普及。当初は半髪・総髪・散切りがあった。脱刀は進まず,'76年の廃刀令で軍人・警察官などのほかは帯刀禁止となった。」(引用2)

新しいものへの志向というと英語の格言では「古い革袋に新しいワインを入れるな」がある。これは、新約聖書『マタイ傳福音書(またいでんふくいんしょ)』9章17節の「また新しき葡萄酒をふるき革嚢(カハブクロ)に入るることは爲(なさ)じ。」に由来する。ことわざは "You can't new wine into old bottles"で、英語の聖書は"Neither do men put new wine into old wine-skins" (Matthew 9:17) 。

ザンギリは、こういう漢字がある。
「散切・斬切・残切」「月代(さかやき)をそらないで、頭髪をうしろへなでつけて結ばず、切り下げたままにした髪形。なでつけ。散切髪。」(引用3)

「髪の毛をうしろへなでつけて、……切り下げたまま」というのは、オールバック伸ばし放題でヤンキースタイルに見えなくもない。現代だとわたしが思い浮かぶのは、日本語としての、ワル、ヤンキーである。

俳優の山田孝之さん(1983-)(スターダストプロモーション)の一時期のヘアスタイルに近いかもしれない。映画『クローズZERO』や映画『新宿スワン』(参考1、2)だ。わずか一度したことがある大学時代のわたしのウルフカット(Mullet hairstyle)的なのをもしもオールバックにしたらこれに近いだろう。

似たような髪型の江戸時代の偉人は確かに居たように思われる。福沢諭吉や大鳥圭介などを輩出した江戸時代後期、大阪の私塾「適塾」の緒方洪庵(おがたこうあん)だ。緒方洪庵は総髪撫付(そうはつなでつけ)だと言われる。医師で蘭学者。身分問わず志ある者に平等に教えた。実学の精神。

それでは、因循姑息(いんじゅんこそく)とは何か。なぜ考えるかと言えば、明治維新のころ、最も流行した新語が「文明開化」と「因循姑息」だったそうだ。

因循姑息の意味は、古い習慣や習俗によりしたがって改めず、一時のがれをすること。また、決断力に欠けていて、ぐずぐずすること。「因循」の「因」も「循」も、昔からのものごとに従うこと。「因習」という熟語を思い出すとわかりやすい。

「姑息」は、よく「卑怯」の意味で使われるが、本来は「その場しのぎ」のこと。「姑息な方法」といえば、「一時的な方法」ということ。(参照「因循姑息」所収『四字熟語を知る辞典』小学館)

すなわち、昔ながらのことにはあまり考えずに従っておけば良いというふうになりやすいことから、それを皮肉って、古い頭なんかに聞いたって、決まりきった話が出てくるのだが、新しい髪型には新しい考えが聞こえるという話であろう。

つべこべいわず屁理屈こねず、昔ながらのことを覚えていくことにも理由が沢山あるのであるが、明治維新のときには、ひとびとの新しい世界への希望としてのエネルギーがそうして歌われて居たということなのかもしれない。

しかしその髪型は縄文時代や弥生時代に実は戻っていたなどということになったら、さぞ、おもしろき。  

大熊町の髪型は、秋でススキだった。すすき。芒、薄、茅、萱、尾花。秋の七草。牛群れて小川を渡る―かな/鳴雪。まるで現代人または人類そのもの。 

写真:大熊町の竹

参照
1、『渡部鼎(わたなべ かなえ)』所収『八重のふるさと福島県』福島県観光交流局観光交流課 2020年11月13日閲覧
http://www.yae-mottoshiritai.jp/seishin/kanaewatanabe.html
引用
1、散髪脱刀令 日本大百科全書 小学館
2、〃 旺文社日本史事典 三訂版
3、精選版 日本国語大辞典 小学館
参考
1、映画『クローズZERO』(監督 三池崇史、原作 高橋ヒロシ、東宝、2007)
2、映画『新宿スワン』(監督 園子温、原作 和久井健、ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント、2015)
3、髪型に関しては『黒髪の文化史』大原 梨恵子(築地書館)といった本が出ている。
4、Acrobates - L.E.J (2018) https://www.youtube.com/watch?v=QQi_dR6GiSU
5、文化庁月報
6、『シリコンバレーの富裕層も、トランプ時代のサバイバリストたち』AFPBB 2017年4月18日 https://www.afpbb.com/articles/-/3125437





20201114
光り輝く黄色い森をドライブいわき。いくつかの詩を読んだ。今年もいろいろあった。記憶する必要ないことの大抵を忘れ去ったことで快適に暮らせている。個人としての忘却と、社会としての忘却は、違うのだ。個人は忘れることで楽になることが多々ある。社会は忘れ去れば過ちを繰り返すことあり得る。だから石碑が立つのだろう。農機作業者も復興に命を賭けている。

雑誌についてはメンバーが忙しい日々でなかなか原稿が集まらなくなった。全体執筆という無理をせず共同執筆というカタチで進むことにした。あれから10年。ひとつ役割を達成し終えた。新しい状況に合わせながら編んでいき今までのことにこころから感謝であり大事にしていきたい。

ひと個人の場合は自由で良いと思われる。個人としてわたしが覚えるよう学んでいるのは思い出そして書籍のもことも多々あるが20言語だ。そのなかには、中国語と韓国語を含んでいる。日々、中国語と韓国語と日本語を同時に学んでいて分かるのはどれもけっこう似ているところがあるということ。たとえば漢字の音読みならば、もとは同じものだからだろう。

古代日本の先達は大陸と半島の言語をすぐ学べて達人になれるような文化的素地を日本列島の人々に遺していた。たとえば「発送」という言葉について見てみると類似性がすぐわかる。

日本語
発送
はっそう

韓国語
발쏭하다、
pal-ssong-ha-da、
パルッソン ハダ、
発送 する

中国語
发送 fāsòng
(ファソン)
発送

たほう、英語関係の辞書などを書き遺していくのは幾つかの限定的な江戸時代後期の単語集的辞書を除けば、英語、ドイツ語、フランス語は、明治時代以降のことが主だろう。(参考1)

長崎の人でありオランダ通詞(貿易通訳)の本木良永(1735~1794)という江戸中期の蘭学者がいて、その息子であるオランダ通詞の本木庄左衛門が、日本で最初の英和辞書を書いている。

本木は、日本で最初の英和辞書『諳厄利亜(アンゲリア)語林大成』、最初のフランス語学書『払郎察(フランス)辞範』などを1811年から編纂した。なお、通詞という職業には唐通詞(とうつうじ)もいて中国との貿易通訳をおこなった。こちらは渡来人の子孫がおこなった。

蘭学(オランダ学)は江戸時代にオランダとの交渉が始まって徳川吉宗がオランダ書物の輸入禁止を解除した。おそらく公式にはこれが始まりで、享保年間(1716~1736)に青木昆陽(あおきこんよう)(1698―1769)が蘭学の始祖となる。

国立国会図書館はこう伝える。
『慶長14年5月30日(グレゴリオ暦で1609年7月1日)に2隻のオランダ船が平戸港に到着しました。7月25日(8月24日)には徳川家康が貿易を許可する朱印状を発行し、正式に貿易が始まりました。この朱印状は現在、オランダ国立公文書館で保管されています。以後、日本が鎖国政策を採っても、オランダとの交流は続き、日本人にとってオランダは西洋文明を直接伝えてくれる唯一の国でした。我が国に西洋の文物がもたらされ、一方、オランダは日本の文物を西洋に伝えました。』

『当初は貿易に限られていた交流も、しだいに知的な方面に進む。オランダ船で輸入されたものには、オランダ語の書籍もあった。これを通じて江戸時代の日本人は、西洋の学術「蘭学」を学ぶことになる。蘭学の芽生えは8代将軍徳川吉宗の時代である。彼は、殖産興業、国産化奨励の方針から海外の物産に関心を示し、馬匹改良のため享保10年(1725)など数回オランダ船により西洋馬を輸入、ドイツ生まれの馬術師ケイズルを招いて洋式馬術、馬医学を学ばせた。また、享保5年(1720)禁書令を緩和してキリスト教に関係のない書物の輸入を認め、元文5年(1740)ころから青木昆陽、野呂元丈にオランダ語を学ばせるなど、海外知識の導入にも積極的であった。』(引用4)

青木は蘭学にくわえ儒者であり農学者でもあり、救荒作物(天災、飢饉、戦時用)として考え、サツマイモの本『蕃藷考』を書いている。たしかに原発事故後の作物を検討しているわたしは青木の存在を、妻が見つけてきてくれたサツマイモの絵本で知った。それで、イモの書籍を少し持つ。いまニンニク栽培してるが。

蘭学というのは語学だけでなく西洋の科学や文化も吸収しているので、江戸期の日本思想史に影響を強く与えたことだろう。つまり、明治以降のみ=西洋化という図式は少し誤解を与える可能性もあるかもしれない。

明治の変革というと震災前には少々読んだ小室直樹を思い出す。かれの本を手書きで雑なノートにまとめていたりしたものだった。社会学者は今なら恐らく宮台真司氏が有名であり小室氏の教えを受けた人達が書いた本に寄稿している。

Mr. Children 桜井和寿さんは『Asia (エイジア)』で歌う。「ASIAN BEAT 東と西は混沌に満ち 矛盾の中で人々は眠る」「ASIAN TUNE 少しずつ気づき始めているのさ 守るべきものは 愛という名の誇り」(参照 4枚目アルバム『ATOMIC HEART』所収 トイズファクトリー、1994)。

いわゆる大衆による歌謡曲、みんなが大事にして時代を表す曲となった音楽、というのが今は消えてしまい個々が別々の曲を普段から聞いているばかりの時代になったようにも指摘されていてその通りでもある。

しかしまだ実は時代の鉱脈があるにはある。この辺りウィキペディアは信頼厚いと思われるが、それによれば、ぼくらの世代を輝かせているミスターチルドレンはこのアルバム『アトミック・ハート』にて男性アーティスト史上最高の売上を誇っているからだ。アトミック・ハート。

70年代の神戸でカラオケは発祥したようだが、通信カラオケとしては90年代である。つまり1989年にMr. Childrenが活動し始めて、それから人々の間にカラオケ文化が花咲いたのでもあり、カラオケという文化が定着したと言えるころだろう(ドリカムは1988年)。

1981年1月生まれのわたしも大熊町の「響(ひびき)」というカラオケボックスで中学生や高校生のときよく歌ったものだった。大野駅に近い。少しばかりの林と建物内部の受付窓口が周囲を不思議な空間にもしていたような気がする。その窓口を越えれば音楽という魔法をぼくらも使えるようになる(ヴェルトで書いた会津の炭焼き号での歌も思い出す)。

響(ひびき)とは、大熊の人が聞いたら懐かしむであろう店名だ。わたしもミスチルは当然に歌った。いまも弾き語り2曲ミスチルすぐ出来るぐらい。たぶん、2015年の夏ぐらいだったか、ふくしま本の森(会津坂下町)の初期ごろ夏か秋の夕方のパーティーにて妻の吉田博子と演奏したり弾き語りしたりしたこともあった。

避難指示区域(旧警戒区域)というといかに廃墟なのかということがよく取沙汰されているが、わたしたちの目に映るのは当時の活気だということをわたしは大熊町行政が発行する冊子に5年ぐらい前に寄稿したことが有る(役場近くの陸橋過ぎてファミマの活気の話を書いた)。

「響(ひびき)」に友達と一緒に行って、そこでドラマーとベースの友達からボーカルに誘われたのであった。ギタリストは友達2人にわたしが入門を教えた。わたしは別バンドのドラマーからベンチャーズの曲によって弾き方を中学のクラシックギターで教わったりして覚えたり既に弾けたギタリストの友人から「X Japan」を教わったりして、初めて持ったのは手のひらサイズの小さいCDプレイヤーだった。指弾きや弾き語りは高校生ぐらいから自分で覚えた。

中高生の当時はカラオケで注文する食べ物というのがやけに高くて貴重であり、ひと部屋1時間たしか2000円などで使用できたが、今と比べるとけっこうな高額であろう。数百円で歌い放題などない。カラオケで食べたイギリス風の太いフライドポテトが美味かった。とっても大事な思い出である。

富岡町に行ったときは夜ノ森駅から近い自遊館だろう。ズームという服屋が隣にあり、リーバイスの黒ストレートを試着して時々買っていた(セブンイレブンになる前の話)。反対側はレンタルCDとビデオの創夢館であり(8cmシングルCDが全盛でもあったり)、スーパーのトムトム(後にヨークベニマル)もあった。夜ノ森の桜にはここでの思い出も含まれている。

2011年の夏マウイ島ではカラオケと焼肉のレストランに誘われて行って、大勢で焼肉カラオケパーティーに参加して、酒を飲んだ。ふだんマルボロもラッキーストライクもタバコをあげるほうだったがこのときはきらしてしまいマルボロメンソールをもらった。タバコは日本よりずっと高く、約900円などであったか。この時まだパイプタバコを吸ってない。その数年後には禁煙達成した。

ある年上の男性が歌っていたカウボーイの歌というのが今になって調べて分かった。ボン・ジョヴィ(Bon Jovi)の『Wanted Dead Or Alive』である。歌詞は「おれはカウボーイ 鋼鉄の馬に乗り」「生死を問わず」。今度わたしも歌ってみたい。鋼鉄にまたがる、という響きはわたしの場合は、ブランキー・ジェット・シティ(Blanky Jet City)の『ガソリンの揺れ方』を思い出す。

わたしが歌ったのはレディオヘッドの『CREEP』とビートルズの『HELP』と多分オアシスの『リヴ・フォーエヴァー』であり受けも非常に良かった。無口な英語しか話せないのに英語の歌が流暢だったのもあるかもしれない。楽しい時間をみんなと過ごせたこと最高の思い出である。

いわき市に引越して来てからは妻がカラオケにときどき行っている。会津若松市に暮らしていたときは会津の凄いジャズバンドに所属していたこともあり、アメリカのジャズも英語で歌うことができる。風街亭でのライブに行ったのを思い出す。

聞いたのはジャズのスタンダード『ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ(You'd be so nice to come home to)』(作曲、コール・ポーター、Cole Porter)だった。意味は、家に帰るとあなたが居てくれることは素晴らしい、などとなるだろう。戦時中の歌である。

あれから10年、まるで戦時中かのように次々と異常事態が日常になるという困難を経験しては過ぎ去っていった。一人だろうと家族だろうと、なんとか帰れる家があるというのは(多様な意味での家)、素晴らしいことだ。コール・ポーターも最後に愛(LOVE)と書いている。

311のときわたしが持って避難した7冊ぐらいのうちに新約聖書がある。オックスフォードとケンブリッジ大学が関係する。日本聖書協会から戦後すぐに発行された文語体の新約聖書であり、日英対訳本だ。英語も古そうである。

(※今のところ「大正改訳聖書」だとわたしは推測しているが専門の書籍で確認したい。毎年の書籍代が高すぎて大変なので何とか図書館も利用している。丁寧に扱わないと本が分解しそうで茶色)。

その『ヨハネの第一の書』にはこうある。
神は愛なり。「God is love.」(Ⅰヨハネ4:8)

(※もし「for」をから入れると「神は愛なればなり」である。つまり引用そのことがそうだが、引用というのは文章全体の一部ということであるので全体の流れ、文脈などもっと知りたいかたは実際に読まれたい)

なお仏教には「慈悲」(maitreya; karuṇā)があると言われる。

『仏教用語。原語はどちらか一つの場合も両方の場合もある。「慈」と「悲」とは同格であり,2語間には多少の意味上の相違がある。「慈」はサンスクリット語 maitrīを原語とし,これは mitra (友) から派生した抽象名詞で,あらゆる人に平等に注がれる最高の友情,友愛という意味。「悲」はあわれみ,同情の意で karuṇāを原語とし,嘆きを原義とする。他人の嘆きと同化し,みずからも嘆きをともにするとき,他人に対する最も深い理解が生じると説く。』(引用1)

シンプルには、友情、友愛、共感、ともに悲しむ、とうことだろう。
『慈は人びとに楽を与えること,悲は人びとの苦を抜いてあげることをいう。生きとし生けるものを苦から救済するという利他行を展開せしめる原動力がこの慈悲である。慈悲という仏教的な愛の精神は,基本的には自己は無我であると悟るところにあらわれる自他不二の精神から起こる。』(引用2) 

楽しみを与え、苦しみを抜く、この機能は現代において負の感情が否定的に捉えられがちな文脈にあかるい一石を投じることができるだろう。まだ最大の問題が続行していた2015年ごろ、わたしの記事で万単位の閲覧数がいったとき、一部ではネガティブパワーなどと言われもしたが(WG FUKUSHIMA2号所収)、共感もされたのだと信じている。ただしわたしは、負でありさえすればよいという意味ではないと考えていることもまた事実だ。

慈悲の説明でもっとシンプルにはこうある。
『いつくしみ、あわれむこと。なさけ。』(引用3)

いささか唐突だが、こういうことも「いき」の概念に入ってくるのではなかろうかと記して終える。

写真:いわき市小川町にて

参考
1、常設展示『第152回 常設展示 辞書を片手に世界へ —近代デジタルライブラリーにみる明治の語学辞書—』国立国会図書館 2020年11月9日閲覧https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_999427_po_152.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
引用
1、慈悲 ブリタニカ国際大百科事典など コトバンク
2、慈悲 世界大百科事典 第2版 〃
3、慈悲 デジタル大辞泉 小学館 〃
4、江戸時代の日蘭交流 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/nichiran/s1/s1_3.html


20201108
 妻のおでんやイクラ丼が美味い。今週は寝違えて腰痛に苛まれた数日があって養生した。寝る前に食べると稀にある。ランナー膝にならないよう膝も一緒に休ませて1週間ほど経ち、完治っぽい。概ね過ごしやすい秋である。マラソンのおかげで下半身は恐竜だ。それ以外では、ゴルフ、バット、木刀の遊び素振りと格闘家を真似した遊びシャドーボクシングが楽しい。デフィニトリー・メイビー。

 クルマを買った。前回は宿泊と落ち着きメインだったが今度は恰好いいお洒落感メイン。エアロつけてフォードとフォルクス・ヴァーゲンの中間ぐらいの形(※ヴェルトのヴだ)。今までの車は雪国メンテをしなかったので限界が来ていた。ただ今回のはバックモニターに車庫入れのラインが出ないから気をつけねば。大安に納車。どのクルマも好きだがデザインが気に入った。

 今年の新語・流行語大賞はソーシャルディスタンスなどかもしれないが前向きに「新生活様式」(The New Normal)にしてもよさそうだ。最初のころは小池氏の「密です」のゲームなんかも2Dと3Dで出されたのを覚えている(参考1、2)。新生活の様式にはいろんなものが含まれる。マスク、消毒、ビデオ通話の集会などは公共インフラ化していく可能性がある。経済と福祉は両輪だ。

 今週はアメリカの各州がテレビに出ていた。USドル・コインには50州のがあってマウイでコレクトしたのを思い出す。2011年マウイ2ドルコインもある。ギリシャのドラクマもある。ユーロ紙幣もある。米ドル紙幣はワシントン、リンカーン、ハミルトン、ジャクソンならある。観賞用じぇに実物は好む。株式投資やギャンブルはしない。

 あるとき「こないださあ」と3年前の話をしたら「クニの時間軸はどうなってんだ」と言われたことを思い出した。それは10年以上も前のことであった。笑い話だが、まずまずの良いことだと考えている。若いころは酒をたくさん飲んだので覚えていないことも非常に多い。

 今というと、ある国では大きな選挙だった。コロナ禍の不景気だから福祉政策への需要が大きくなる。日本では有効求人が30%減っている。あと30減ったらリーマンショック時の2人につき1つしか仕事ない状態に戻る、夏の感染者数は少なかったが。(参考3、4)

 大国も経済の落ち込みが酷い(EUでは今もロックダウンしたりしている国もあり、海外の感染者数は桁違いだ)。米銀行が出すベージュブック(Beige Book)よるとコロナ前を大きく下回ったままだそうだ。リアルな生活を前に、民主主義パワーが発揮されるのだろう。

 あるデモの写真で「Count every vote.」と「Every vote counts.」という文があり、英単語 countの意味を2つ覚えた。1つは「数える」。もう1つは「重要だ」という意味。すべてのひとびとが笑顔になることを祈っている。

 新しいセカンドハンドのクルマでたいへんお得なシンプル机と読書用サイドテーブルを買いに行った。やっと普通に一歩……。これぞ平凡だろう。いわき市は全国でも珍しく震災後はプチバブルが続いていた記事を読んだの思い出す。平凡というより平穏とも言える。大の大人がやっていることだ。じわじわと来る幸せか。秋の空が輝いている。

天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ 僧正遍照

あまつかぜ くものかよひぢ ふきとぢよ をとめのすがた しばしとどめん そうじょうへんじょう

 歌意 空吹く風よ、雲の通い路を閉ざしておくれ。天女の舞い姿をしばらくこの地上にとどめておこう。(引用1)

※写真は車検に行ったとき

参考
1、『密ですゲーム』(ゲーミングチャーハン)(2D)
https://gamingchahan.com/mitsudesu/

2、『密です3D』(密です3D)
https://www.youtube.com/watch?v=O9-7h8karSI

3、『コロナ解雇、雇い止め7万人に 増加勢いやや鈍化、厚労省』共同通信 2020/11/9
https://this.kiji.is/698341690920862817?c=39550187727945729
引用『解雇や雇い止めは6月に2万人を超え、以降は1カ月約1万人のペースで増加。8月末に5万人に達していた。厚労省の集計によると、当初は緊急事態宣言に伴う外出自粛要請で打撃を受けた宿泊業や、道路旅客運送業が中心だったが、夏以降は製造業での増加が目立つ。都道府県別では東京都や大阪府、愛知県など大都市が中心となっている。』

4、『雇用情勢厳しさ続く 非正規6月104万人減』
日経新聞 2020/8/1 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62189990R00C20A8EA2000/

引用
1、『原色 小倉百人一首』著 鈴木日出男 山口慎一 依田 泰、文英堂




20201027
いわき市「小名浜(おなはま)」と言ってわたしをイメージする人々は皆無だろう。実は身内がいわきで勤務していたこと結構ありご縁を感じている。

今回は妻の意向により湯本からさらに南へ20分ほど車で向かった。目的は、いわき市の泉町といわき市の小名浜地区である。

泉町は、玉露定田(たまつゆさただ)にある八幡白山神社である。町が見渡せる。爽やかな小高い場所にあった。

それから泉町滝尻上谷地のJR泉駅に着いて、辺りを少し見渡しつつ走っていると、仮設住宅の一群を発見したが、取り壊されている最中であった。また新たな場所へ人々は散った可能性があることを思った。

いずみまち(泉町)、この辺りは、甘露寺村(かんろじむら)、玉崎村(たまさきむら)、洞村(ぼらむら)があったそうだ(参照1)。

いわき市役所のウェブサイトの写真によれば(参照2)、泉町には水田が広がっていたことが確認できる。ヴェルト雑誌の15号『聞き書き二幣地』で考察していることだ。泉町とか谷地という地名も水が豊富なことを思わせるが、用水の便は悪く開発は大変だったとのこと。昭和中期から土地区画整理事業で住宅が増える。

泉町は、江戸時代には泉藩の秣場(まぐさば)だったそうだ。日本大百科全書「秣場(まぐさば)」によると以下になる。引用。

江戸時代、飼料・肥料採取を目的とした原野。秣は牛馬など家畜の飼料にあてる草をいい、秣場は本来それらの草を採取する場所をさすが、田畑の肥草(こえくさ)(刈敷(かりしき))を採取する場も秣場と混同して称した。それは、戦国時代以来の戦乱の終結とともに、江戸初期には軍馬の需要が減ってその数が漸減したことと、新田開発による刈敷の需要が増加したこととが相まって、(吉田が改行)

秣場が刈敷採取の場に変化したにもかかわらず、秣場の名称だけは相変わらず残ったような事情が一因にあげられる。しかし軍馬は減っても、旅客や貨物の運搬に街道を往来する荷馬は絶えることがなく、商品経済の発展とともにその需要は増したから、これらの荷馬および農耕牛馬を飼育する所では、本義の秣場として利用されたことはいうまでもない。なお、秣場は通常、村・集落単位の入会(いりあい)場であることが多い。[飯岡正毅]

すなわち、運送など牛馬の餌、新田開発、田畑の肥料、として村の重要な共同利用地だったということになる。

入会(いりあい)というのは、「特定地域の住民が、慣習に基づいて、一定の山林原野または漁場を共同で利用し、草・薪炭材・魚介などを採取すること。」である(引用 デジタル大辞泉「入会」)。


小名浜地区に向かう。松之中地区には「焼肉 慶次」という飲食店がある。たいへん美味い焼肉に舌鼓のひととき。店内にはマンガ『花の慶次』の絵が飾ってあった。

電車では泉駅から近く、自動車で言えば六号からアクアマリンへ向かえばすぐ近くである。この辺りは海抜が低そうで、まさに開けた明るい浜感がある。

小名浜は、歴史ある大きい港がある。いわき市農林水産部水産課によれば今年は震災後初の大量かつお90tが水揚げされたそうである。

小名浜港は、鈴木則文監督のコメディ映画『トラック野郎・一番星北へ帰る』(1978年、東映)に喧嘩のシーンで出ている。菅原文太さん主演。その後は「会津磐梯山」が流れ会津若松も出る。最後のカーチェイスは今の日本で同じ許可など取れるのかとも思った。田中邦衛さん熱演。

常磐ハワイアンセンターも舞台になっている。見合い失敗のシーン後にデコトラ運転中に流れる演歌がまた合う。岩手県のダム底に水没した村が主人公の故郷だった。全体的に地域色あり自由奔放な演出がたいへん痛快。いまの時代と何より違うと感じさせるのは、人情だった。

事典によると小名浜は、「古くは女浜と呼ばれ,のちに小名浜と改められた。江戸時代は茨城県の平潟港とともに東廻海運の良港といわれた。漁港および各藩の廻米の積出港であったが,安政2 (1855) 年内郷白水で炭層が発見されてから石炭積出港としても栄えた。現在は工業港としての性格が強く,重化学工業地域として発展。」(引用 ブリタンカ国際大百科事典)※読み方は、東廻海運(ひがしまわりかいうん)。

東廻りということだそうだ。どこからどこまでなのだろう。小学館のデジタル大辞泉は言うに、「江戸時代、東北・北陸の港と江戸とを結んだ幹線航路。当初は津軽海峡を経て太平洋沿岸を南下し、銚子から川船で利根川・江戸川を経て江戸に達したが、寛文11年(1671)河村瑞軒が房総半島を迂回(うかい)して直接江戸に入る航路を開いた。東廻り海運。」

北陸というのは通常、福井、石川、富山、新潟の4県である。

また、「寛文年間(1661‐73)に書かれた《磐城風土記》によれば漁船100艘,廻船10艘,塩釜8があり,カツオ漁でにぎわったという。」(引用 世界大百科事典第二版 平凡社)
なるほど、かつお漁で賑わっていたとのこと。

廻船(かいせん)は、江戸時代に、沿海(※うみぞい)で定期航路に就航した大型貨物船 (廻漕船・かいそうせん……物資などを船で運送する) のことである。起源は中世にさかのぼり、当初は行商船をさした。

鎌倉時代初期の文書には廻船の記述があるとのこと。廻船は、鎌倉時代から日本列島を回っていたのかもしれない。

ちなみに西回りの場合は、日本海から山口県の下関を通り、瀬戸内海の大阪へ入るコースであり、17世紀に開かれたというから江戸時代からである。

河村瑞軒(かわむらずいけん)とは、「江戸前期の商人。瑞賢とも。伊勢の人。江戸の明暦の大火(1657年)の時、木曽の木材を買い占め巨利を得る。幕命によって奥羽米の江戸廻米のため東西両廻り航路を開く。また、安治川を開削、淀川治水事業に尽くした。」(大辞林第三版 三省堂)

「航路を開く」ということは、それまでどうだったのだろう。なかったのか。ぶつぎりだったのか。ほかには、銀山の事業もしたようだ。三重県度会郡南伊勢町の南伊勢町役場にそうした記述がある。いわき市の常磐湯本町に野口雨情は若いとき暮らしていたことが有るので童謡館があるが、南伊勢町も野口雨情に厚い。15基も詩碑がある。

雨情さんのしゃぼん玉は普遍的だ。普遍性ある音楽はだれのこころにも滲んでいることと思われる。非常にシンプルであるがゆえ多様な解釈を許容する。

わたしの場合、長渕剛さんの歌「しゃぼん玉」(1991)を思い出す世代かもしれない。(今すぐは)「帰りたいけど帰れない もどりたいけどもどれない」けれど、いったいぼくらは「いくつのしゃぼん玉を打ち上げるのだろう」と今なら読む。

河村瑞賢のところで安治川、淀川と出てきた。安治川は旧淀川の分流であり、淀川はと言えば、琵琶湖から大阪湾へ流れ出る唯一の川のようである。事典にはこうある。

淀川
全長 75km。琵琶湖の南端に源を発する瀬田川が,京都府に入って宇治川となり,大阪・京都府境付近で木津川,桂川を合せて淀川となる。大阪府に入り大阪市と摂津市との市境で神崎川を分ち,都島区毛馬で新淀川と分れる。そのあと大阪城の北で寝屋川を合せたのち中之島をはさんで堂島川と土佐堀川に分れ,さらに河口付近で安治川,尻無川,木津川の3つに分れ大阪湾に注ぐ。 (引用 ブリタニカ)

近畿地方というのは、大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、和歌山県、滋賀県、三重県の2府5県からなる。近畿に運ぶにしても東京に運ぶにしても、輸送というのは陸上のトラック野郎たちから船の漁師たちから、人々の生活になくてはならない非常に重要な仕事である。わたしは原稿用紙の上から光回線も用いなにがしかの文化を運ぶことにしよう。

参照
1、『いわき市泉町玉露、泉玉露の「玉露(たまつゆ)」の地名由来は?』レファレンス共同サービス 国立国会図書館 https://crd.ndl.go.jp/refe…/modules/d3ndlcrdentry/index.php…
2、『泉玉露』いわきの『今むがし』Vol.84(いわき地域学會 小宅幸一)いわき市役所 更新2017年12月13日
http://www.city.iwaki.lg.jp/…/cont…/1513049979280/index.html
3、辞書の類は全てコトバンク
4、商人をこえた日本の偉人 河村瑞賢 南伊勢町役場 https://www.town.minamiise.lg.jp/
直リンク
https://www.town.minamiise.lg.jp/section/kawamura/
5、記事名『小名浜港に震災後初となる大量のカツオ90tが水揚げされました!』ウェブサイト名『いわき常磐もの 公式サイト』いわき市農林水産部水産課 2020年7月22日 http://joban-mono.jp/ 直リンク http://joban-mono.jp/notice/3635.html




20201025
吾輩は猫である。世の中で雨が降ろうと風が吹こうと何するものぞ。部屋の書籍にまみれて静かに暮らしている蔵書家の。趣味で雑誌も発行はする。

たまに朝も昼も夜も、偶然たくさんの友達と話したり等するときがある。コロナ禍でみんなちょっとずつ疲れ気味の様子だから、わずかでも元気になってもらいたいものだ。

アメリカでは50歳などで仕事を引退して、余生というのでなく長いセカンドライフを考えているのだということをマウイ島の人たちとの会話で実際に知ったことがあった。そもそも欧米では休暇も長い。

自分はどうかと思えば、3・11前がファーストライフ。3・11後がセカンドライフ。解除後がサードライフだろう。そして定年はないがあるとしたらフォースライフとなる。かなり特殊だ。
日本一般の人達はどう人生を区分け解釈して過ごしていくのだろう。

今回の地元旅では、また常磐湯本町に来た。

前回書くのを忘れたが、こないだ足湯に入っていたら、海外旅行好きで世界中を旅してまわった女性が話し相手を欲していたのか、けっこう聞いた。ヨーロッパや中国や韓国やアメリカ、カナダ、ハワイ、オーストラリア。料理と風景と清潔感の話をしてくれたのだった。

今回は女学生らも入っていた。あの一か所だけで2つ足湯があるので、少人数グループが2つぐらいは同時に入れる。入り終えてまた温泉神社に参拝した。敷地内には陰陽石に見える木製のサエノカミも祀られていた。愛は大事。

くじを引いたら妻も私も大吉だった。神社の紋は左三巴紋と思われるものが見られた。非常に多く使われる紋であり、たとえば沖縄では琉球王家である尚家の御紋である。わたしの家も左三巴紋なので親近感だ。

神社のかたから、温泉スタンドというところに行けば温泉水が買えるのを教わった。スーパーマーケット・マルトの近く。自動車を停められる場所がポールで塞がれているように思われた。

注意書きを見ると、既に見てきた役場でメダルを買うとある。今回だけは神社で貰った少しに感謝して次回にしよう。120円とかそこらでかなり買えるようだが、3円分とかで注水を停められるのだろうか。いずれ聞いてみる。

あしゆ近くの看板を見ていたら温泉に関する工事も治水関係の工事とともにたいへん重要なのだろう。温泉のことは分からないが、いま自分の地元いわき市に緊急的な話題である川のことを思い出した。

NHKニュースで旧河道(きゅうかどう)という場所は水害確率が高いような話があった(参照3)。ただ、平地というのは、数万年前や縄文時代などからすれば、もと海の確率が非常に高そうであり、最近でも湖や川の確率は高い。もと何かというのも気象傾向によりながら、現状と周辺地理そして治水工事が重要だろう。最近いわき市では河川を掘ったりして流せる量を増やしている様子であり、重機を見かける。

そう言えば、わたしの家のとある土地を、大きな道路にする流通網や往来増加のため工事と、水路をつくる治水工事のとき、先祖が提供した歴史があるというのを聞いている。お役所で古いことを知る人達なら知っている。その際、明治から梅の花咲く木々はずらりと切ったらしい。お国に尽くして、人々の安全安心や便利そして商売経済になってきたと思うとそれは誇り高いことなのかもしれない。これは吉田家の文章にも入れたい。

湯本にあるとある饅頭屋さんではさっと寄れたので妻が羊羹を買って、これもまた美味かった。通りにはブロンズ像がそこかしこに立っていてパブリックアートの置いてある千葉市を2年ぐらい前に少し歩いたのを思い出した。同時に、ある大学でパブリックアートに関するわたしの記事が紹介されたことがあるのも思い出した。福島の3・11震災原発事故に関するパブリックアートはどうなっていくのだろうかと思ったりしないでもない。

けっこうパブリックアートが見られた千葉において市立美術館では展示『1968年 激動の時代の芸術』を見たのであった。1968年。ベトナム反戦運動。三里塚闘争。東大闘争。文化大革命。いまとは結構様子の違う時代だが、つい最近のことだ。展示は終わっているだろうが、もし千葉に行かれたらこの美術館で手に入るだろうこの展示に関する書籍を読まれると時代を動かすアートパワーを学べて良いかと。

すこし早いお昼は「ハラル食堂」に行った。

おそらく東北では相当に珍しい。『「ハラル」とはイスラムの戒律(教え)で「神に許されていること」を意味しており、食材や料理はもちろん、モノや行動に至るまでイスラム教徒(ムズリム)の生活の中で許され、合法的であることを表しています。(引用「ハラル食堂」https://www.halal-iwaki.jp/)』

キーマカレーを頂いた。これは美味い。好みである。それから「かりんとうまんじゅう」に行ったが定休日だった。今回は眠くなる前に帰ろうと思っていたのでそそくさと帰る。

もうしばらくになるか、日記文学エッセイを書いた場合は、出し惜しみせずにFacebookで投稿するようにしている。SNS的には長くて、SNS的な瞬時の動きでは読めないと思わせてしまっているかもしれない。気軽に読めるところだけでも幸い。

人目につかないところで風呂敷に包んでおいたって、多く積読されたままの書籍群と同じくそのまま腐るだけなんてことも多々あろう。読み、書き、話し、聞き、わたしはこれが面白く好きなことなのである。

夏目漱石によれば、芸術は自己の表現に始まって自己の表現に終るものだそうだ。人によって解釈は違うだろうが、その解釈や思考からして自己の表現なので、この言葉は深い。


そんなおり、ナショナル・ジオグラフィックにてアメリカのノーベル化学賞であるジェニファー・ダウドナ教授が話している記事を見かけた。部分的に引用する。

――あなたの最大の強みは何ですか?
 執着心ですね。いったんアイデアが浮かんだら、それを実現させるまで諦めません。骨の折れることでもありますが、私が科学界で多くのことを成し遂げられたのは、自分のしぶとい性格のおかげだと思います。

――あなたがこれまでに乗り越えてきた、最大の壁は何ですか?
 自分に対する疑いは、何度も乗り越える必要がありました。具体的には「私が生化学者になんてなれるのだろうか?科学者としてやっていけるだろうか?」といった疑いです。私にとって成功とは、金銭的報酬や専門家からの称賛を意味しません。「自分を誇りに思えるような研究ができているだろうか?人生の選択を誤らず、心から得意なことを仕事にしたと言い切れるだろうか?」という問いにイエスと答えられること、それが私の考える成功です。(略)(以上)

ここで執着心と翻訳されたもとの英語は「stubbornness(スタバネス)」であり、「頑固、不屈、強情、偏屈、自分の考えや願望への執着」などの意味がある。

つまり、関心(care)や執着力・粘り強さ(persistence)や忍耐力や根気(patience)と言っても良いかもしれないが、あえて頑固のほうが使われているのは、なぜだろう。

おそらく、次の段落が答えなのだ。自分で自分を信じることが弱くなり、自分からの疑いが自分を襲ってくるとき、それを振り払う意味合いが「頑固」という意識的な言葉にあるのかもしれない。

自分を好きになることは非常に大切だと思うからわたしは共感した。活得像自己(Huó dé xiàng zìjǐ.)(自分らしく生きる)。たほう、なにかに囚われてしまうすなわち、強迫観念にとりつかれている妄想状態になってしまうことは、避けねばなるまい。うってつけの記事もちょうど読んでいた。


釈迦である。かれに関する記事を読んだ。釈迦のことを知っているようであまり知らない。いつでもそういう感じを受ける。ここから長いのでまた後で戻ってきて読んでくれても有り難い。

「釈迦」
仏教の開祖。釈迦牟尼 (むに) ともいう。釈迦は種族名 Śākyaの,牟尼は聖者を意味する muniの音写。釈尊は釈迦牟尼世尊の略称と考えられる。シャカ族の国王浄飯王を父とし,摩耶夫人を母とし,姓をゴータマ Gotama (瞿曇〈くどん〉) ,名をシッダールタ Siddhārtha (悉達,悉陀) という。以上(項目内部の前半のみ引用)(ブリタニカ国際大百科事典)

釈迦牟尼(しゃかむに)とは、釈迦族の聖者という意味であった。世尊とは古典サンスクリット語でBhagavat(バガヴァット)といい、世間に尊重される者の意味。そうして氏名がやっと出てきて、ゴータマ・シッダールタさん(Gotama Siddhārtha)、ということになる。

マーヤーは出産のために実家へ旅をして、その途中、今のネパールにあるルンビニという小さな村で陣痛が始まり、サラソウジュ(沙羅双樹)の枝につかまってシッダールタを産んだ。すなわち、妃が、実家へ出産のために帰るという動きをしていた。

ルンビニを発掘調査すると池が見つかる。そこは、王妃であるマーヤー(摩耶)夫人(ぶにん)(Māyā)が出産前に沐浴したとされる神聖な池とされる。ここで「沐浴(もくよく)」(Ablution. Bathing.)とある。

沐浴というのは、湯や水で、身体を洗うことで清らかになるという意味合いを持つ。キリスト教でもヒンドゥー教でもイスラム教でも沐浴は見受けられる。神社の手洗い場はその一種だそうだ。

すぐに浮かぶのは風呂である。ただ、風呂というとサウナ式のと湯舟につかるのとあるが、それらというよりは、風呂場で身体を洗うほうに力点があるだろう。身体を洗う場合の風呂ならば、風呂に入る行為もその一種になるだろうと思われる。

いずれにせよ、シッダールタがまだ何も言葉で説いてないうちから、マーヤー夫人が沐浴をしていたということは、当時の信仰または慣習にしたがって、そう行動していたことが考えられる。しかし生後7日目に母は亡くなった。明治時代でもそうだが昔の本を読んでいると人々の寿命がだいぶ短い場合が散見される。

そこで叔母「摩訶波闍波提(まか・はじゃはだい」(Mahā-prajāpatī)(マハー・プラジャーパティー)の手で育てられた。マハーの別名は多く、例えば大愛道、など。釈迦族である。姓は分かっていて、喬答弥(きょうとうみ)などと書かれる。釈迦とともに生きた年月が長いようである。

父親はインド北東部を支配していたシャーキャ(釈迦)族の王、シュッドーダナ(浄飯王、じょうぼんおう)(サンスクリット:Śuddhodana)である。シュッドーダナとマハーの二人は、シッダールタを世の痛みや苦しみに触れさせないよう、なんと王宮から出さずに育てた。

いまのネパールにあるカピラバストゥという城に住んでいて16歳で結婚して、ラーフラという息子もいたが、そのうちに家族も冨も捨てて29歳で出家してしまった。出家などと聞くと、すごそうにも見えるのだが、見ようによっては家出(いえで)のようにも見える。

そうして6年後だった。6年という月日は決して短くない。この、悟りを開く前の生活中にバルガ川(ガンジス川の一支流)(古くは尼連禅河、にれんぜんが、という)で釈迦は沐浴したようだ。その6年間はどのようなものだったのかも気になるが、とにかく、35歳で真理を悟って仏陀(ぶっだ)(覚者)となり、80歳で没するまで、ガンジス川流域の中インド各地を周遊して人々を教化した。

なお、ラーフラ(Rāhula)(羅睺羅尊者)については、釈迦と耶輸陀羅(やしゅだら)との間に生まれた息子であり、釈迦に従って出家したとのこと。出家する前のゴウタマ・シッダールタの妃であるラーフラの母はヤショーダラー妃(耶輸陀羅)(サンスクリット:Yaśodharā)であり、彼女は、釈迦の養母であるマハーら500人の女性とともに出家した。

そうして、もと王子シッダールタさんは各地を旅する人として一生を送った。その理由は何だったのかというと、たまたま家を出てみたら、生まれて初めて病人と老人と死者を見た。それでゴータマさんは衝撃を受けたから、人間の苦しみを終わらせる知恵を求めて旅立ったとされる。

権力者である親が温室育ちで育てたがゆえに冒険への反動が起きるのだから、いわば、苦しみに触れさせたくなかった親の思いとは真逆になったといえよう。ただ、シッダールタが大人になっても温室にいるべきだと思っていたかは分からないが。

シッダールタさんはひとびとに教えを説き、サンガ(僧伽=そうぎゃ)(Sangha)と呼ばれるようになる出家者集団をもち、悟りを開くために世俗に背を向け、執着を捨てることを説いた。世俗での執着を捨てるのだから、諦めるという意味合いにも近いように見える。その点のことはいずれ考えておかねばならない。

かれの思想が一挙に広まる機会となったのは、別の、しかしまた、「王様」のおかげである。紀元前3世紀頃に即位したアショーカ王(Ashoka)が、領土拡大のために征服し続けていたところ、自分が起こした戦争によって苦しむ人々を目にして激しく後悔した。

そのため、暴力を放棄して仏教に帰依し、仏教の教えを国家政策としたのだそうだ。アショーカ王というのは、生き方がシッダールタさんとアシンメトリーに背中合わせに同じなのである。そもそも戦争は悲惨だと分かっていたはずが、やっぱり酷いことを繰り返したくない悲しみを癒したいなどと思ったのかもしれない。

シッダールタは最初に温室育ちだったが、世の苦しみを見た衝撃がゆえ、解決するため冒険するようになった。アショーカは最初に戦争であって、その後、世の苦しみを解決したいと思うようになった。シッダールタとアショーカは、どちらも世界の苦しみに衝撃を受け、その治療者になることを目指したのである。

シッダールタの場合、その衝撃の発生した理由は、かれのこころのなかに、何が悲惨でどんな状態が素晴らしいかという価値感というか、基準のようなものがあったからだと思われる。

先述のように、シュッドーダナ王がシッダールタ王子を、苦しみのない世界で育てたことが、大きかったのだろう。シッダールタ王子にとっては「これが平穏」という基準が「苦しみのない」「城の中」だったか。何にも執着せずとも済むような満ち足りた世界。

そう思うと、王様の王子への思いは、そのまま王子が世界への理想として受け取ったとも言えそうだ。むろん、修行の間にブッダとなってからのシッダールタの宗教哲学といったような思想は、相当に発展したものであろうから、あの城の中とまったく同じではないにしても。

このように学んでいくと、シッダールタとサンガだけでなく、シュッドーダナ王、マーヤー、マハー、シッダールタ王子、お城の中、現実世界、修行中の出来事、そしてアショーカ王の5人それからサンガ集団のすべてが連動した文化的繋がりを持っているように思われる。

シッダールタの暮らした城を想像するに、オスカー・ワイルドの『幸福な王子』を思い出させる。ある学術誌を参照したハフポスの記事によれば(ぼくは猫飼いだったから、もとから知ってたけどね)、猫たちはゆっくりまばたきをすることで信頼と安心感を示しているというが、そういうのんびり猫たちがたくさんいるような平穏な世界だったのだろうか。

幸福な王子は像になって世界の現実を知ってから、自分に飾られていた全ての装飾を世界の貧しい人達に分け与え、最後は自分の身体ですら溶鉱炉で溶かされてしまう。そこでも溶けなかったのが彼の堅い心臓である。それは「鉛(なまり)」の心臓だ。

なまりとは、英語で、lead(レド)であるが、同じ綴りの異音異義で「lead(リード)」もある。リードの意味は、導く、ひとに道を教える、先導する、案内者、などであるから、まさにシッダールタに見えてくる。像につけられた多くの装飾品が、欲望や執着の意味である。金持ちが天国へ入るのは駱駝が針の穴を通るより難しいという話を思い出す。

その心臓が唯一真っ二つにくだかれた出来事が、幸福な王子像とともに貧困救済などに活動してくれたツバメの死であった。神が天使に、この街で最も尊いもの2つを持ってきてと言われ、その心臓とツバメの遺骸を持っていった。神はそれを褒めた。そうして王子とツバメは楽園で永遠に幸福となったそうだ。永遠に。

ひとが生きること、人生において意義深いことは何なのかを教えてくれているように思われた。

(英語のほう要約で対応)

引用
1、ノーベル化学賞のダウドナ氏、最大の強みは執着心
「ゲノム編集」開発でノーベル化学賞を受賞、自身のキャリアを振り返る ナショナル・ジオグラフィック 2020.10.08
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/100800585/?P=1
2、ジェニファー・ダウドナの記事、英語版 Jennifer Doudna, "Strength in stubbornness: A 2020 Nobel winner reflects on her career

参照
1、『ブッダの謎に考古学で挑む、最古の仏教寺院発掘も
謎に包まれたその生涯や生没年、世界遺産の生誕地ルンビニを調査』
ナショナルジオグラフィック 2020.10.12
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/100400575/

2、『猫との絆は“ゆっくりと瞬き”すると強められる。最新研究で明らかに
10/12』Hilary Hanson(ハフポス日本版)(※ハフポスUS版を翻訳したもの)(Yahoo!ニュース)https://news.yahoo.co.jp/articles/bac94c830185c932da16bce0c690fe338808ec7c?page=1

3、地図はいまも悪夢を知っている NHKニュース 2020年10月21日 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201021/k10012673411000.html

4、ブッダの記事ナショナルジオグラフィック英語版 "Buddha's birthplace yields clues about his mysterious life" VERONICA WALKER
https://www.nationalgeographic.com/history/magazine/2020/09-10/buddha-birthplace-yields-clues-about-mysterious-life

参考
1、国土地理院 国交省
https://www.gsi.go.jp/




20201017
一気に肌寒く感じる秋だから、近くの温泉へ行った。当方の雑誌ヴェルトガイスト・フクシマに書いている通り、ひさしぶりの「地元旅」である。コロナ時代で新生活様式のひとつでもあろう。

いわき市常磐湯本町にお出かけ。
古代は奈良・平安時代から都にその名が知られる日本三古泉の1つ(ほか2つは有馬と道後)。美人の湯だからこそなのか、伊能忠敬、田山花袋、竹久夢二、草野心平といった男たちも来ている。

今回お目当ては手軽に行ける足湯である。場所は湯本に行けばすぐわかる。あげている写真は、十月上旬にわたしが撮影した。
あし湯と言えば会津地方では若松から会津美里町へ歩いて通ったものだった。本郷大橋には強い風が吹く。それが寒くて寒くて、あまりの寒い日には気を抜くと気を失いそうになる。自然の凄さを思い知った。昔の暮らしを体感したなあ。

この世のものとは思えないほどの凄い世界である川の上を、いまは歩いて行けるのだ。つまり渡る、それは異次元を通り別の世界へ行くことなのである。今風に言えば、人生で次の舞台へ進む前の猶予時期すなわちモラトリアムから渡るようなものかもしれない。


NHKのEテレではメキシコのユカタン半島にて、水中にある鍾乳洞の世界が放送されていた。深い水中世界はスキューバダイビングをしないわたしの行けない世界。

淡水と海水は上下で混ざらない。色の違う上の水のほうにダイバーが来ると、気泡を出しながら泳いでるのに、海面から出てきて空中に浮いているように見える。

海底では、光が届かない。ある小さい魚は、もはや眼球が必要なくなって退化して、ひっそりと泳ぎながら佇んでいる。近くを小さなエビが歩く。悟りの一種ではなかろうか。


……さて常磐湯本町(じょうばんゆもとまち)。もとは常磐市。常磐炭田の「黒いダイヤ」による炭鉱住宅が並んでいた。1960年代後半にエネルギー革命で石油が主になる前の激動エネルギー史である。温泉と石炭の関係は複雑であり、今なら映画『フラガール』をまずは見たら入門に良いのだろう。この辺りの歴史は深い。

常磐市というとわたしが思い出すのは、毎日新聞、藤原章生さんの生誕地である。1950年代である矢作さん赤坂さんの次の世代である。藤原さんは1961年生まれ。

福島県の1970年前後の福島県公式の映像がある。梅沢さんがナレーションだ。『福島8mmキネマ劇場~昭和40年代前後の福島』PrefFukushima 2013年4月3日 福島県
https://www.youtube.com/watch?v=2vCjmPVMTuM


福島の石炭エネルギーは東京の発展のため、東京の人々が暮らすためのエネルギーとして運ばれていた。首都の工場から暮らしから温めたのである。馬車軌道ののち海上輸送という手段を使う時代もあったようだ。馬が線路の上を走る車を引く。英語で炭鉱はcoal mineやcollieryという。

1961年は、常磐市の玄関口として駅前の都市改造の計画が出来上がっていくころであり、炭鉱隆盛のバロメータである「ずり山」が見られたようだ。採炭する際に排出した土砂を積み重ねたものであり、今は草木が茂り丸くなり他の山並みに同化している。というような内容をいわき市役所が提供している(参照*1)。

むろん、会津の炭焼き(charcoal burner)も思うが(大熊町にも炭焼きの歴史がある)、わたしはここで、大熊・双葉にあって60年代には着工され、70年代から運転開始していく原子力発電所(nuclear power plant)が東京や関東の生活エネルギー、家庭を照らしていたことを思っている(参照*2)。平和利用だった。

(※東電の電気がどの地方に送られてきたか完全な把握はわたしに分からないが、現在の事業所一覧では静岡と山梨を加えた関東ということになっているようだ。https://www.tepco.co.jp/about/office/)

だいたい同時期の70年ぐらいに常磐炭鉱は閉山していく。当時のニュースだと思われる『ヤマが消える』毎日ニュース、という映像によると「突然、くびを切られる4800余人の従業員たち」と聞こえる。言わずもがな、たいへんなことが起きた。(引用*1)

いつぐらいから近代産業としての炭鉱が始まるのだろう。
『閉山を決めた常磐炭礦(じょうばんたんこう)(現 常磐興産)は1884(明治17)年、様々な企業設立に携わり、「日本の資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一らによって、前身が設立された。』(引用*2)

ここで起点のなかに渋沢栄一さんが出てくるのであった。同記事も「常磐炭礦も71年春、大規模閉山で5千人近くを解雇した。」と伝える。2つのメディアで同様の数字が出てきたと言える。一番の問題は退職金だったと朝日新聞が報道している。

崩落やガス漏れなど死と隣り合わせの危険作業のため福利厚生(ふくりこうせい、employee benefits)で炭鉱住宅が建てられ、助け合いの精神が息づいた。彼らに提供された「炭鉱住宅」はさまざまな意味が込められ、略して「炭住(たんじゅう)」と呼ばれた(参照*3)。戦後の貧しい復興の時代を支えたのである。

なお、日本は石油の8割を中東から輸入していることもあり自給率は全然ないのである。そこにほぼ同時期で原子力発電所がやってくる。エネルギーの歴史は日本の近代産業の歴史そして国防の歴史だと言っても過言でない面があるだろう。そうして、一人一人の家や手荷物に電気があり、生活そのものなのである。


すぐ近くの和菓子店に気づいて向かう。「和菓子工房 しら石 湯本中央店」。入るとすぐに『かりんとう饅頭』を試食で頂いた。

ふつうの饅頭だろうと思っていたら良い意味で裏切られた。美味くて好み。相馬的に似ているものを挙げるならば『凍み天』だと思われる。

食べ過ぎてもなんだと2個を買ったが後にまたすぐ食べたくなり行ったら定休日だった。かりんとう、どう聞いても、ただの饅頭のはずが、すばらしい発明だ。

それからぼくらはカフェ「エスケープ」に行った。ランチが美味くてうれしかった。ランチの美味いカフェのある町は特別感がある。その後は風景を眺めたりして帰った。

エスケープの意味は脱出や逃亡だろう。曇り空でひと通りまばらな日に、ある百人一首が思い出された。なんの偶然か、藤原さんの歌である。

世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶとしなり。1114~1204)

静かな場所を求めて逃げたが山の奥でさえ鹿が泣いているように聞こえる、世に悩みは尽きないのだな、という内容らしい。藤原定家の父、藤原俊成の歌。

俊成さんはまるで現代人のようだ。われわれも休暇で温泉に思ひ入るのもよいだろう。休暇を楽しむために逃げ込んできた温泉街であるが、その持っていた苦労の歴史を垣間見るとき、ああ、どこの世界でも鹿は鳴いているのだと、しみじみ。
湯水のなかでゆっくり手足を動かして遊ぶとしよう。それはきっと、悟りの一種だ。

(日英)

・参照
1、『【いわきの『今むがし』 Vol.4】』『常磐湯本町』2014年8月4日 いわき市役所 総合政策部 ふるさと発信課 http://www.city.iwaki.fukushima.jp/www/sp/index.html
※直リンクこちら
http://www.city.iwaki.fukushima.jp/www/sp/contents/1455184150040/index.html
2、『福島第一原子力発電所 設備の概要』TEPCO
https://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/outline_f1/index-j.html
3、『いわきの『今むがし』Vol.138』2020年7月29日 同 http://www.city.iwaki.lg.jp/www/sp/contents/1595985358214/index.html

・引用
1、『ヤマが消える』毎日ニュース https://www.youtube.com/watch?v=eua_yrgnEKQ
2、『(白球の世紀:101)炭鉱閉山の夏、勝ち進む 高校野球』(五十嵐聖士郎)朝日新聞 2018年6月5日 https://www.asahi.com/articles/DA3S13527567.html

・参考
1、『福島8mmキネマ劇場~昭和40年代前後の福島』PrefFukushima 2013年4月3日 福島県
https://www.youtube.com/watch?v=2vCjmPVMTuM
2、『常磐炭田略年史』常磐炭田史研究会(江戸時代末期に白水村弥勒沢にて石炭層が発見されている)。同会の場所は、常磐湯本町にある、「いわき市石炭・化石館」内「常磐炭田史研究会事務局」。http://tankouisan.jp/data/year_history/index.html


20201017
お弁当を大熊町で食べる。

だいぶ減っては来ているが、こないだイノシシと遭遇した。手を叩いて「ほら、こっちに来てはダメだよ!自分らの世界に帰りな!」と声を出したら去っていった。試しにクラクションを鳴らしてみたら動きが止まる。人間の音と機械の音とでは反応が違うのだ。

双葉町にある伝承館について菅義偉総理による見解が記事になっているようだ。(語り部が)震災におけるご自身の経験を率直に語ることは極めて重要と述べたとのこと(朝日新聞10月10日)。世間では少し議論が起きていたようだが「極めて重要」……それなら良かった。

で、人口減少は急激な数が予想されているから、イノシシやそのほか獣害は、農作物にとってより重要課題になるだろう。地方全体で野生動物や森林草木そして豪雨台風などとのやりとりは話題になる。さらにインフラ維持も課題になる。そこに異常気象とコロナだから、サバイバルな課題が山積だ。

最近どたばたで普段の2倍は忙しかったがやっと落ち着けそうである。そもそも忙しいとかわたしの場合は言いたくないのだがつい思ってしまう。理想を言えば水鳥のように暮らしハードボイルドでいたいものだが道のりは遠い。

王者フロイド・メイウェザー・ジュニアは「わたしは間違えた。実にわたしは間違えた」が今や「ライバルが寝ているとき、わたしは練習している」「やりたいことに集中しろ」「わたしは自分を追い込む」と言っている。彼の階級は軽いほうだ。

(I make mistakes. I make mistakes. When my opponent is sleeping, I am working. Focus on what you want to become. I'm pushing myself. )。(Floyd Mayweather Jr.、1977年生まれ)

ただパンデミックだけは難しい。なにかと日本も危機的だから、ひとは価値観が再び変わるのだろう。『3.11当時は忙しくて見逃したがコロナで変わる組』が出てくるのかもしれない。被災地が苦労してきたものとはこれだったのかと。生き方とか考え方やものの見方などが。

ちなみに妻に格闘技の映像おもしろい話してみたら「なに、カクトール?」と言っていて笑った。きのう妻がつくってくれた純豆腐がたいへんマシソッソヨ(美味しかったです)(맛있었어요)。

昨年から西日本出身の大学生ご研究のため取材を受けていてその続きをまた一つ終えた。お元気そうで何よりだった。いつでも機会あれば話ができるよう復興セレブの窓際族は精進したい。

雑誌は詩人の号と夢語りの号を特に気に入ってくれたようだった。わたしにとっては全ての号がむろん大好きだが、この2冊も思い入れ深く、いま読んでも自分で面白い。


お話した山ほどのなかで一つだけウェブにもある話なので書き出しておこう。たとえば、太平洋戦争に関して、船舶設計技術者である播田安弘氏の話をわたしなりに端的にしたのだった。

船は、右舷と左舷のバランスがとれていると沈みにくく良いという科学についての比喩を思うからだ。

大日本帝国は、世界に先駆けて航空機時代の到来を予見していたため、世界で初めて設計段階から空母の目的で、航空母艦をつくったのだそうだ。

各国はまだ航空機のことを軽んじていたのに、山本五十六連合艦隊司令官は海軍航空隊まで設立して訓練に励んだ。しかし1922年、ワシントン海軍軍縮条約により戦艦は抑えられたため、小さい巡洋艦や駆逐艦の活用を考える。

造船中将・平賀譲は小さい船に多くの武器を搭載できるよう軽量化に成功して世界に名を知らしめたのであった。ロンドン海軍軍縮条約の後でも同じことをした。後に彼は帝大総長にもなる。

しかし、そのような造船の神様でも、大きなあやまちをしてしまったのである。科学はあっても技術やその運用には、つねに不確実性が伴う、失敗から学ぶ話だとも言える。

軽量化によって強度が下がることを懸念した平賀は、「縦隔壁」(じゅうかくへきと読むだろう)というものを船の内部にとりつけた。船の中を右と左で分断してしまうのである。

これによって、魚雷が船に当たって水が流れ込んでくるとき、船底にバランスよく水が入らず、片側だけに入るため、片側だけが沈み船が横に沈みやすくなるうえに、大砲の角度も不安定になり敵にやられて沈みやすくもなる。

なんとさらに、その縦隔壁は、播田氏によれば、強度補強として大幅には増加しなかったという。まさかの致命的な欠陥を背負うのに考えられない加工ではないか。

たとえ違和感があっても誰も大変偉い軍人のおこなったことに批判もできなかっただろうし批判できない社会が招くおおきな落とし穴のリスクは、ひどいものであった。批判を悪口と誤解する人達がいるから、ここは提案と言っても良いだろう。

そして、土木建築などで使われるI(アイ)型鋼の梁の話が出てきて、つまり水平部を厚くするほうが強度に良いという話になる。わたしが20歳ごろ受けた宅建試験でも柱の強度に関して同じ話があった。それは短期間でも最後まで粘った勉強の成果だった。

日本の軍艦は、重巡洋艦の場合、72%もが魚雷による横転沈没だったのである。もし、もしその左右分断の壁がなければ、小さな軍艦たちに戦艦「大和」が守られているので、ガードを固めておきながら大和はロングショットを発し得た。

さらに書くと、他の設計士も船を沈みやすく設計してしまっていた。それは左右でなく、いわば前後の設計である。最初の地図が間違っていれば、確かにあれなのだ。

これに対してアメリカはダメージを小さくするダメージコントロールをしていたというから、帰らない方向で考える日本とは真逆なのである。ここで播田さんのお話は「そういうことは今もあらゆるところにあるのでは」という趣旨でこの記事は終わる。

右と左に偏らず両方がバランスよく適切な思考や議論を積み上げていく設計という基礎的な地図が、列島という船には重要だろう。そういう、教養としての船底を厚くする守りが培われていけばそれぞれにもっと優しい航海になるだろうとわたしには感じられた。日英

参照
・『【科学で検証】太平洋戦争中、日本の軍艦が次々と沈没していったワケ』播田 安弘 現代ビジネス(講談社)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75812


20201005
写真は2011年3月中旬ごろ。
農業手伝いと、主に学習教室運営時代。

避難していた体育館で二桁人数ぐらいの人達と離散するときに記念撮影をしたのを今でも所持している。いまだに再会できてはいない。町の人達と離れて親戚の家などに行きたくない体育館が良いと泣きそうになっていた中高年男性とご家族がいたことを思い出す。

いろんな人たちの話す輪のなかでストーブを囲み、ひっそり座って聞きながら、研究者のライトハウス英和辞典をわたしは読んでいた。ずうっと話を聞いていたら、そのうちに覚えられて、わたしの名前が「英語」と呼ばれるようになっていた。

今頃なにしていることだろう。お元気ですかと思う。私しか撮影できなかったであろう、いろんな写真を撮影したし話も沢山あるが、さしもの私もいつまで覚えていられるものやら分からない。あれから10年だ。この写真は、大熊の人達と記念撮影をいくつかしたなかの一枚。わたしの勲章だ。

はたと思う。これらはすべて現像というか、プリントアウトしておかなくてはならないだろう。データはクラウド保管してあるから大丈夫とはいえ。許諾はないから何かに使うことはできない、ただの個人アルバムだ。

わたしは当時べつにジャーナリズムなんて知らなかったし興味もなかったが、このことは残しておかねばならないと強く思ってNikonカメラのクールピクスを持って、一時でなく当事者として居続けたのだった。だがカメラよりも、この両目に焼き付いている。


さて今日は「ドライブするうでちょいマックぅ♪」を木村拓哉で聞き、ハコスカを見て「やっちゃえニッサン」と言っているCMミーハー野郎は、わたしである。

ふだんからお菓子も好きだが、マクドナルドのハンバーガーもまれに食べたくなるのだ。思えばこれは、牛肉である。牛じゃのう……。東京ではマック、大阪ではマクド。

イギリスではマクドナルド、アメリカではマィクダァノ。それぞれ英国人の友達に英語を教わっていた一時期と米国のは米国大統領夫人と友達の先生に教わった時に知った。

さいきん、お酒をもうやめたいという友達から相談が来るようになった。そんな珍しいことをするのはわたしぐらいだろうと思っていたが、わたし以外にも禁酒したいひとがいるんだなと知って嬉しい。

そのうち社会に役立てるようnoteに結構な額で売りに出しておいても良いかもしれない。雑誌で健康系を書くのはいつになるかわかりゃしないが、健康に関するメモなら結構あるはある。


お酒なんかは飲まなくても楽しいことは世の中に山ほどある。たとえば風呂に入るなんて最高だ。風呂は実に素晴らしい。秋の虫の音を聞きながら自動お湯入れ風呂に入る。木々の風に揺れる音も良い。夜空も良い。イマドキは焚かなくていい。そのぶん時間ができたのに何故か余計いそがしい。

思えば昔わたしは実家で風呂を焚いたこともあった。昭和後期生まれとしての東北人としては普通かもしれないがわたしの年ごろではぎりぎりの世代だろう。ガスと風呂釜と両方できたから新しい部類だったと思われる(先進的な大川原の友人宅でジェットバスだったときは驚いたが)。

わが家で風呂の燃やすところと煙突の下部はレンガだった。こどもながらにお洒落だなと思った。そういう家は、たいへん苦労してローンが支払われてきたものであり、その古さ加減も財産であった。むろんというわけでないが、今もまだ避難指示区域内に立ってはいてくれている、ひそけき。

焚く風呂だから、炎で熱くなる風呂の底には簀の子(すのこ)が敷いてあるのが普通だった。風呂焚きにはやりかたがあって、たぶん母から教わった。秋冬の小枝が燃えるときのパチパチ音が忘れられない。あれは何事かを考えられたり閃いたり感じられたりする時間でもあった。今の時代、もの燃やしたら近隣に気を遣う。

実を言うとわたしの母はときどき天才肌である。たとえば、全国各地の市町村などの地名とその特産物を3位ぐらいまで全て暗記していることをある日知り、あまりの凄さに愕然としたことがあった。

特産物がある地名だった気がするが、そういうのは何を抜き打ちで聞いても全て知っているのである(ちなみに父の場合は例えば町のことなら極めて何でも知っている)。それでアームチェアートラベリングというちょっと古めの言葉をわたしは気に入っている。

たいへん苦労人だった母の書棚は、覚えているだけで言うと、地図と事典類などであった。岩波の国語辞典などと、あと他に、薬草や鉱物、栄養学、料理シリーズなどである。裁縫も得意だったし添加物を入れない調理も心がける先進的な人だ。わたしがスナック菓子ばかり食べないために、だからこそ戸棚はいつも煎餅ばかり置かれていたことを大人になってから知った。

吉田家は浄土宗だった過去があるらしいということを既に郷土の書物を渡り知っていてわたしに教えたこともあることを最近わたしは思い出した。アルミ巻いてさつまいもを庭で落ち葉あつめて焼くこともわたしはできた。

農書は家に山とあって、一冊だけ除染で棄てられずにあるのは震災前に私が勝手に持ち出したからである。農に関する古いことわざのようなものの事典である。今思えば民俗学的だ。 記念にと思ってさらに1冊、べつに注文して買った同じものを持っている。

風呂焚きのことを「風呂を燃(も)す」と言った。そこでは、細かい枝や紙くずなど燃えやすいものを下にしてそこから燃やして上に重ねた太いのも燃(も)していくように、頭を使い、工夫して火をつけ続けるのであるが、燃やし過ぎても熱すぎていけないのだ。

福沢諭吉は若いころ風呂焚きのアルバイトをしていたかもしれない。なにかテレビのドラマにそうあった気がする。懐かしい。『学問のすすめ』には風呂焚きの記述があるらしい。

渋谷生まれで銭湯に関する著作がある星野剛氏によると、福沢諭吉は風呂屋を建物貸しで運営させていたこともあったらしい、なんでも、風呂では上下の区別などないから、世人に自由平等を説くためだったとか。

参照
・『風呂屋のオヤジのフロント日記 「諭吉先生の『銭湯のすすめ』なんてね」 星野 剛 (1996年2月発行/18号より)』星野剛(東京銭湯)https://www.1010.or.jp/arc-hoshino-5/

福沢諭吉に関してわたしは思い入れがある。震災前に福沢諭吉と大隈重信の伝記を読んだことがあるからだ。いずれ所持している福沢諭吉の選集は読まねば。


2011年3月、ぼくらは早くから、お風呂の必要性を強く考えていて、新しくそこで知り合った町の仲間たち何人かとともに必死の、いわば公衆浴場や銭湯などの、風呂探し探検隊を作ってというか、単に田村地域の風呂探しに出かけたのだった。

あの時期だから、屋外を歩いている人達は誰も居なかった。けっこうあちこち歩いたと思う。わたしたちだけだった。それでもとにかく、風呂のほうがわたしたちは先だったし重要だったのである。

そしてなんと、見つけたのであった。そこに町でバスを借りて巡回バスにしてもらい町の人達みんなで通ったのであった。けっこう、小さかった。お世話になってありがたいと思う。公衆浴場とは何て素晴らしいのだろう。

はじめて同じ町の人達と風呂を共にしたのだった。せつなかったなあ。4月5日ぐらいから、会津の素晴らしい温泉に沢山入らせてもらえるようになる前の段階の話である。


とにかく、風呂。これぞ自由の国への始まりであろう。しかし風呂は個人の所有だけでなく、日本の行政サービスとしての福祉的観念からも始まったのであった。それもイギリスの影響である。

1820年、イングランドでは「公衆浴場運動(Public Bath Movement)」というのが始まった。

このときイギリスでは、18世紀の中頃から19世紀の初頭まで第一次産業革命であった。1740年ぐらいから1840年ぐらいまでという意味である。

綿工業、機械工業、鉄道、蒸気、石炭、かなりの数で貧しい労働者たちが歩いていただろうと思われる。でも、現金収入なのだ。

おそらく、そういう労働者のなかでも貧しい人達や移民などに対して、公衆浴場を作ろうという運動であっただろう。

当時は衛生観念が高まり、伝染病の予防や健康増進などが目的だったそうだ。「清潔」が市民の証とされ、教育という社会事業の面もあったという。

日本は、明治期に欧米に渡った視察団がそれを目の当たりにした。

それで公設浴場が行政によって作られる。大正期の京都では被差別部落に作られ、収益をまた生活困窮の救済に使った様子だ。

さらには、理髪室、授産室、集会所、図書箱といった地域の場として機能した。同地域では水の便が悪かったがそれも改善されることになる。

参照
・『「銭湯」から見えてくる 京都の知られざる部落史』川端 美季 衣笠総合研究機構 専門研究員(立命館大学、産学官連携)2018年2月19日http://www.ritsumei.ac.jp/research/radiant/kyoto/story4.html/


(酒や煙草を)飲むでなく、人間は「食べる」も大好きだ。

現代はグルメの最上級に馬肉が並んでいることは言うまでもない。会津で美味い馬肉を頂いたものだった。

美筋女王の安井友梨さんだ。これは何と読むのか、「びきん、じょおう」であろう。ビキニとかけているのかもしれない。

エリート銀行員でありながら、オールジャパン・ビキニフィットネス選手権大会では5年連続チャンピオンであり、SNS総フォロワー数は20万人とのこと。

安井氏曰く、「食べた肉の種類によって筋肉の質が変わるのを感じる」のだそうだ。いろんな肉を食べてそのときのいろんな実感を確かめているという。

そこで、鶏肉を今でも食べるが何と言ってもお気に入りは馬肉だそうである。脂肪分が少なく、栄養的な質もすばらしいのだそうだ。馬肉を食べてから筋肉の質も変わったと感じる。

……と、馬肉の話だけ書いたが記事にはサラダ料理もある。

(参照 美筋女王が食べまくる「肉」の意外すぎる中身 普通のOLを10カ月で優勝に導いた謎肉の正体 東洋経済オンライン 2020年10月2日 https://toyokeizai.net/articles/-/377185)(インスタグラム https://www.instagram.com/yuri.yasui.98/?hl=ja)


つぎに、750年ぐらい遡って、歴人マガジンの上永哲矢氏の文章を読む。にんげんは、争うこともある。そのときも馬が助けてくれた。

元寇での日本の勝利は、神風でなく、馬上からの弓矢攻撃が、決定的だったそうだ。弓の腕もそうだが、馬なのである。

アレキサンダーよりも世界最大のモンゴル帝国のチンギス=ハン(Genghis Khan)の孫フビライ=ハン(Kublai Khan)が1264年に国号を「元」とした。元朝のことを英語ではYuan dynastyというようだが、呼び名はいろいろある様子。

鎌倉幕府というのは第三代源実朝が暗殺されてからは実権が執権職の北条氏に移っていた。鎌倉幕府の将軍は9人なのに執権は約17人いる。

太平洋戦争よりも前に日本が受けた攻撃としては元寇(げんこう)が唯一なのだそう。だいたい、75年前と750年前。「寇」とは、あだ、あだする、外から侵入して害を加える賊、などの意味。

1274年、1281年、それぞれ、文永の役と弘安の役。これより前に高麗は攻撃を受け元の属国になっていた。元との交渉に対して、鎌倉幕府の第8代執権である北条時宗は強気だった。

そのうち元軍は3万人で博多にやってきたが、元軍側の記録にも、騎兵は結束しているという記述があり、日本軍の馬上からの弓矢攻撃が勝利をもたらしたようだと推測されている。

当時の絵巻を見ても、そのような絵になっている。馬、馬、馬、武士、武士、武士、弓、弓、弓、そして矢が刺さって退却している元軍。

それから6年後になって、弘安の役のとき、元軍は15万人でやってきた。日本は博多に20kmの防塁を築いていた。

しかし元軍は壱岐島(いきのしま)や志賀島(しかのしま)さらに海上つまり船の上において日本軍からゲリラ戦を多数受け、そこへさらに台風でも損害を受け、撤退した。というわけだそうだ。

むろん、書物に書かれていることが歴史だが、それはすこぶる政治的な色合いに染められていることが多々あるだろうから、なにが客観的事実であるのかは、わたしに分かりかねる。

ただし武士と馬が大活躍したのはそうだろう。西日本では元軍の遺品などが保存されている様子である。

参照
・『【世界最強・蒙古軍が襲来!】日本の武士団は、フビライによる元寇に「神風」無しでも勝っていた!?』歴人マガジン
・『蒙古襲来合戦絵巻』国立国会図書館デジタルライブラリー https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591514?tocOpened=1)

日本大百科全書(小学館)コトバンク、遠藤元男氏の記述によれば、馬喰(ばくろう)とは、伯楽(はくらく)、博労(ばくろう)ともいったそうである。

また、遠藤氏によると「伯楽は古代中国では馬相(ばそう)をみる者をさしていたが、日本では馬薬師(うまくすし)(馬医)もこうよんだ。13世紀には馬医のほか牛の牛医(くすし)も現れた。16世紀に入ると、馬喰とは馬・牛の売買・仲介をする商人をいうこととなった。」とのこと。

「相馬」の文字が逆転しているのが見える。手相とも言うから馬相になるのだろう。

この写真のとき、わたしがしているサージカルマスクは放射能だけではなく、体育館で貸し出された毛布がほこりまみれだったからも大きいと思われる。むろん、まだお酒にはまり込んでなど居ない。

コメント欄に他の写真と絵巻の画像を添付。

(※ざっと書きの英語なら併記)


20201003
ふるさとは人知れずお彼岸を伝えていた。毎年どのぐらいのひとたちがお墓参りに帰ってくるのだろう。

ほかの地域ほど全然見ない、福島県大熊町県道166号辺りで帰還困難区域内の彼岸花を仕事中に見つけたので撮影した。いわき市の柳生街道(県道41号)に戻ってくると大々的に稲刈りが為されているのを眺めている。

解除になった大熊町の大川原地区では稲作が再開している。山間部だ。そのため大熊町では会津若松市へ避難した恩返しで『帰忘郷』というお酒を造った。「会津娘」で知られる市内の高橋庄作酒造店が醸造する。(参照 福島民報新聞 2020年9月24日)

中国やインドになく日本にあるお彼岸は仏教由来と言われているようだが日本のもとからある信仰に仏教が合体したか又は日本の僧侶たちが独自に考えたか。さらに何か陰陽思想など他に原因があるのか。お彼岸の謎だ。

サンスクリット語で彼岸はpāramitā(パーラミター)という。生死の迷いを川や海にたとえ、その向こう側を言い、悟りの境地だそうだ。海や川は、さだまっていないものなのであろう。ヘラクレイトスの万物流転を思い出させ、また、古事記も思わせる。同じ川には2度と入ることができない。貴重な一時だ。


サンスクリット語に関して少し書く。

ふだん梵字とデーヴァナーガリー文字を少しずつ覚えているが中々覚えられないので仕事の合間に3日間、2時間ぐらいずつ集中して覚えるようにして記憶度合いを上げた。まだ時間がかかりそう。

いまや梵字は、ほぼ日本のみで生きている。ヒンディー語のデーヴァナーガリー文字のほうは現在インドで使われている。わたしにとって梵字学習は仏教を学ぶためである。ヒンディー語のほうはインドを学ぶため。目的が全然違うのだが、近接している。

空海が真言密教を伝えてから梵字が教義のなかで体系化された。最初は中国風に書かれていたが段々と和様梵字になっていった(参照『梵字でみる その教え・意味・書き方』児玉義隆 大法輪閣)。数百年前は天台宗や浄土宗だったかもしれないが現在わたしの家では真言宗だと思われるので中天音を覚えている。

般若心経は7世紀に玄奘(げんじょう)などがサンスクリット語から訳出した。サンスクリット語が確立した紀元前4~5世紀ごろのインドでは、いわば口伝的に広めたから、サンスクリット語の場合、その音を表記できるなら文字は何でもいいようである(参照 114頁 『図説 世界の文字とことば』町田和彦編 河出書房新社)。

仏陀が教えを説示する場合、その相手の精神的能力や性質などに応じてそれにふさわしい手段で説法するようだが(対機説法、たいきせっぽう)、それに似ている。

では古典サンスクリット語について、表記するための文字は何にするのかが問題となる。西欧ではローマ字なのでローマ字で書いている日本の本がある。ローマ字は一文字に音が一つだからそのほうが分かりやすい。Wikipediaではデーヴァナーガリー文字を用いている。例えば釈迦は「 गौतम सिद्धार्थ Gautama Siddhārtha 」と書かれている。

日本の場合は、紀元前3世紀ごろインドで使われていたブラーフミー文字からシッダマートリカー文字(悉曇文字、しったんもじ)ができて、それが梵字として伝わり、今も使われている。しかし日本において経典は主に漢字で書かれている。般若心経も漢字とその音でわたしも覚えようとしている。

ただし漢字の音は梵字の音をそのまま表しているわけでなく、似ているだけで、けっこう違うのである。サンスクリット語つまり梵字での音で般若心経を言うと、プラジュニャーパーラミター・フリダヤ・スートラとなる。

インドでは、ブラーフミー文字系からできたデーヴァナーガリー文字を使っていて、ヒンディー語だけでなく、古典サンスクリット語を表す時もデーヴァナーガリー文字を使う。よってウィキペディアでも梵と書かれデーヴァナーガリー文字が使われている。ゆえ、パソコンですぐ打てる。

すなわち、ブラーフミー文字が、2つの文字の先祖なのである(シッダマートリカー文字〈梵字のこと〉とデーヴァナーガリー文字)。

ただしインドでは、四千年前にインダス文明があり、そこでは象形文字が使われていて、いまだ解読がなされていない。エジプトの神聖文字やメソポタミアの楔形文字は解読されているのに、インダスの象形文字だけまだ謎なのである。ただ、ブラーフミー文字に似ていると思わなくもない。

サンスクリット語は、中央アジアから古代インドに侵入したアーリヤ人の上流階級が使っていたベーダ語が源流とされる。イラン地方に行ったアーリヤ人はペルシア帝国を築く。すなわち、中央アジアにいたアーリヤ人という人々は、ペルシア帝国とインドを作ったことになる。イラン語もわたしは学んでいるので学ぶのがより楽しくなった。


この頃にんにく栽培を少し勉強したので実家で土の違う家庭菜園2カ所に栽培した。作物を勉強しては植えて検査するの繰り返しに時間をとられるが民俗学の領域だと思うことにしよう。種実価格が高い。アラビア半島やメソポタミア文明のある西アジア原産といわれるユリ科の多年草。イラン、イラク、トルコ、レバノン、イスラエル、シリアなどが西アジアである。

きっちり狭い間隔で植えてみたかったので苦労してつくったマルチの端っこだけで済んでしまった。マルチなしも植えた。種実の消毒なし電気柵なしで状態を見てみる。ネット情報によればイノシシはにんにくを避ける習性があるようだが実際にやってみないと分からない。ホワイト六片という人気の品種。

古代ギリシアで歴史家のヘロドトスによれば古代エジプトでピラミッド建設のため労働者に食べられたそうである(中世ヨーロッパでは魔よけとなる)。

いつしかニンニクは中国に伝わって日本に伝わって、『古事記』に載る。やまとたけるのみことが東国(あずまのくに)平定の際、足柄山*(あしがらやま)の神が化けた白き鹿に、蒜(ひる)(野蒜、のびる)の片端を目の中にあてて打ち殺した物語が載る。

中巻、景行天皇、倭建命(やまとたけるのみこと)の東征ぐらいから弟橘比売命の項である。小学館の古事記(228・229頁)では原文に「蒜」としか書いてないのだが現代語訳では野蒜と書いてあり、野蒜なら野草である。

※足柄山……神奈川県南西部、金時山北方一帯の山々。古くは金時山を含めた山々の総称。坂田金時(金太郎)の伝説がある。足柄の山。⦅歌枕⦆ 「とぶさ立て-に舟木伐り木に伐り行きつあたら舟木を/万葉集 391」(引用 大辞林、コトバンク)。

日本において忍辱(にんにく)という言葉は仏教用語であり「大蒜(おおひる)」の隠語だったといったことをコトバンクにて湯浅浩史氏が書く。つまり、にんにくの名は「おおひる」なのであった。

なお、彼岸花には、ラッキョウに似た鱗茎があるようで有毒だそうだが、生薬名としては、石蒜(せきさん)というようだ。見た目がにんにくに似ている。(参照 公財 日本薬学会https://www.pharm.or.jp/flowers/post_4.html)

耕起はトラクターで行ったが黒マルチのため久しぶりに鍬(くわ)をふるって筋肉痛になった。上半身にねじりは効くようだから、これからは会津の特選・樫の木刀で素振りしてみたい。むかし、300年の歴史ある会津若松の福西本店で買った。この文章を書いたあとに小川町の小さな家庭菜園でもにんにくを植えたい。

お彼岸の件からも前回の馬頭観音の件からも思うに、川、海、そういった、人間には制御不能である大自然が、おなじく制御不能である時や、生死の行き来や境目や、先祖の来て帰る道や、肉体から浮遊して流れていく魂ということと、深いかかわりがあることは自然に思い浮かぶことのように思われる。

今年は花火も見なかったし盆踊りも無かった。とんでもない流行り病のためにひとびと商売も苦労して人間関係もぎくしゃくなど、困ったものである。自然の神様然り、ご先祖様たちもさぞかし憂いていらっしゃることだろう。今を生きる我々は、如何に生きようか。

「心で見なくちゃ、よく見えない。だいじなことは、目に見えないんだ。」(サン=テグジュペリ)(星の王子さま)(It is only with the heart that one can see rightly; what is essential is invisible to the eye. Antoine de Saint-Exupéry)

※追記
日本書紀で保食神(うけもちのかみ)のところに馬の発生がある。五来重という茨城県出身で仏教系の民俗学者による『仏教民俗学入門』(角川ソフィア文庫)を読んでみたところ、かれも馬頭観音における仏説と実際の庶民の信仰内容との相違について考えたようだ。

知識人である坊様の話に対して、親譲りの信仰を農民は遠慮がちに続けたのは気の毒であったなどと書いてある。学とか知識とか、ただしさ、ただしい信仰とは何なのだろうかと考えさせられる。中国の古い書物、『捜神記(そうしんき)』に記述があり、養蚕の神である件について、「蚕神馬明菩薩(さんしんめみょうぼさつ)」が出てくるそうだ。

それでオシラ様と繋がって、オシラ様は死者の霊がこの世に帰ってくるときの乗り物または憑代(よりしろ)だとか、幽界の支配者である白山神だとか白山信仰が関係していたり祖先信仰だとか、蚕様が幽界から来た虫だと考えられていただろうなどと書いてあった。遠野物語の世界だ。農耕や軍事だけでなく、精霊馬としての馬つまり祖霊信仰。お盆に道で霊を送ることが多いからサエノカミで祖霊信仰だと繋がる。なお、新興の宗教がなぜ噴出したかの理由も考察してあり成る程と思ったこと紙幅の関係から指摘だけする。

それから、東北地方では馬のことをマッコと言ったそうである。炭焼きの話、カコと同じだ。伊勢神宮では節分に絵馬をかける行事があるようだ。8世紀の坂上田村麻呂の三春駒は蝦夷征討のときに現れた馬である。『今昔物語集』(巻十三)には絵馬が出てくるそうで平安朝時代には絵馬信仰があったとのこと。宮中では白馬節会(あおうまのせちえ)がおこなわれる。

また、『皇太神宮儀式帳』によれば、神宮では平安朝のはじめに荒祭宮(あらまつりのみや)と月読宮(つきよみのみや)に、青毛の土馬(※土馬とは奈良・平安時代の馬形土人形。雨ごいなどのお祭りに、本物の馬の代わりに使われた。川の跡などで見つかる)をあげていた。平安中期には板彫り馬にかえたと『内宮長暦送官符』にあるそうだ。絵馬は、土馬や本物の馬をつかう儀式の代わりになされる儀式的行為なのだろう。山の神が馬に乗ってくるとかも書かれている。

ところで、わたしが乗っているのは牛馬にも似ている乗り心地であり農耕の友だが、轟音の農機なので、この世では近代化が凄まじいのだと実感する日々である。あの世に行くときもしかしてわたしは自動車とかトラクターに乗って行くと考えるのだろうか。それとも船とか、歩きとか、飛び立つとか。飛ぶ夢は見る。


20200926
いわき市小川町にて、馬頭観音*が小玉川沿いにある。写真はその川沿いにある学習水田。いわきの旧家な梨農家のかたと話し、いわきの美味い梨を食べまくった後は稲穂の香りが楽しみだ。妻の発案で行った。豊かな恵みをくれ命を支えるのも、むろん川である。

轟々と流れる川が、村はずれの境界だから、あの世に繋がっていると考えられているのかもしれない。湯殿山も近くにある。彼岸花(曼珠沙華)が咲きそうだ。
思い出すに風のある本郷大橋を渡り会津美里町でも馬頭観音や湯殿山や水神を、阿賀川沿いで、よく眺めたものだった。イチョウの木があり。

いわき市小川町の小玉川では、令和元年東日本台風の水害に関する国土強靭化対策により護岸工事が開始されていたがまだ始まったばかりのようだ。台風の予定は昨年と同じなら10月中旬だが雨がち、かつ、来春完成なので間に合わない。

小川町には観光名所がある。小川江筋(おがわえすじ)である。
「磐城平藩の郡奉行である沢村勘兵衛勝為が起工し、寛文5(1665)年に完成した水路です。小川町関場にある取水口から四倉町に至るまでの約30キロメートル」(いわき市観光サイト https://kankou-iwaki.or.jp/spot/10070)。すごい江戸時代の景色がいわき市にあるのだが、これはどうなるのだろう。関場地区は水害被災地である。

いまだに回復していない小川町の傷跡をいつも悲しみながら、早く人々が笑顔になればと祈る。水害の時代に生きて思う。川は人間が対応するには非常に困難な自然物であり、不確実性の領域だと感じられ、この世のものとは思えない。そう言えば三途という境界の場所も川だった。被災経験をもつ人類が恐れているということだ。水には、海外にも非常に古くから洪水伝説もある。

そこに石碑が建つ。なにかで読んだことが有る気がするが、馬頭観音はすべての生き物の鎮魂を目的ともされたように思われる。書類と違って水に強いため、後世に知らせたいという思いもあっただろう。そしてむろん、牛や馬というのは移動や農耕のとき愛すべき友であった。謎の牛頭観音もいるのはそのためかと思われる(牛頭天王ともひょっとしたら何か)。言わずもがな会津では赤ベコがいる。

ただ、イギリス人アーネスト・サトウの子である武田久吉『路傍の石仏』(第一法規)によれば馬に関する話は誤解であり、これは聖観音などの六観音に属するという。だが誤解も長く続くと民間信仰になると思われる。なぜ誤解的な信仰を敢えてしたかである。それが必要な祈りだったからだ。

たしか九州では、水害時の二階建ての屋根の上に居た家族と犬……、しかし犬まではヘリコプターに乗れず連れてってもらえなかったような映像を見た。つぎにいつ会えるか分からないが手持ちの餌をすべてわたしたのを見たとき、わたしは少し身震いした(結果的に助かった)。原発事故でも犬猫たちは扱いに辛いものがあった。動物福祉の厚い自治体には移住者も集まるだろう。

こういうものが立つのはその内心に、自然災害の完全防災、地球の運動の完全予測、自然の完全制御、不老不死、生命、欲望、矛盾……あらゆる点で、人間には不可能な領域と悩み苦しみに対する救済祈願があるからではないかと感じられる。馬頭観音の場合はむろん動物という友達家族についての生命の終わりと、あの世での冥福だろう。

つまり虫や動物について供養(行為)による鎮魂である。考えてみたら、動物の墓は江戸時代どこにあったのだろう。いわゆるお寺が管理する墓では特殊なものを除き一般的に見たことが無い。最近ではペット霊園というのも見たが。では、それが出来る前はどこだったか。埋葬は庭などだとしても、祈りの場としては、馬頭観音なのかもしれない。虫には虫送りがある。

(さらに想像する。つまり、日本の信仰が最初にあり、そのあとに仏教が入ってきて、それは畜生のことだからと馬頭観音が築かれたという流れだと論理が真っすぐになる。いま私の柳田全集は実家倉庫なので確認できないが、柳田国男の山島民譚集にはそういうことを想像させる記述があるようにネット引用で見かけた。
 馬と牛の文化だらけなのだ。漢文書き下し版なら国会図書館にある。その79コマ139頁にはたとえば馬頭観音とあったり野馬とあったりするが他にも山ほどあり、それだけで何冊も出そうなぐらい。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460962
 それを後のひとびとが誤解だと誤解しているのかもしれないが、昔の人々は仏教よりも古いものを貫いた可能性があるかもしれない。少なくとも懲罰的思考または破邪系のことよりも慈悲と鎮魂のほうを重視したということである。そうでなければこんなに馬頭観音が日本にないとわたしは思う)

※馬頭観音……〈梵〉Hayagrīva。ハヤグリーヴァ。六観音・七観音の一。宝冠に馬頭をいただき、忿怒(ふんぬ)の相をした観音菩薩(ぼさつ)。魔を馬のような勢いで打ち伏せ、慈悲の最も強いことを表すという。江戸時代には馬の供養と結び付いて信仰されるようになった。馬頭明王。(「馬頭観音」小学館、コトバンク)

追記
Facebookにて折口信夫の歌を教わった。33・34頁にあった(引用『海やまのあひだ 自選歌集』釈迢空 改造社 大正14年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016974/75)。

「供養塔」一連五首
人も 馬も 道ゆきつかれ死ににけり。旅寝かさなるほどの かそけき
道に死ぬる馬は、佛となりにけり。行きとどまらむ旅ならなくに
邑(むら)山の松の木(こ)むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅びとの墓
ひそかなる心をもりて をはりけむ。命のきはに、言ふこともなく
ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり

 供養塔
 数多い馬塚の中に、ま新しい馬頭観音の石塔婆の立ってゐるのは、あはれである。又殆、峠毎に、旅死にの墓がある。中には、業病の姿を家から隠して、死ぬるまでの旅に出た人のなどもある。

以上

折口信夫による『自歌自注』によれば、ま新しいというのは、亡くなったばかりのところにできたばかりの石碑が新しいことで、最近に亡くなったことが知られ悲しいという意味であったと思われる。旅人らしい。てっきり馬塚というところに馬頭観音が文化として入ってきた話かと思ったが。

そうしてとにかく、雪国である会津では藩主がお助け小屋を建てたという話を聞いたことが有るほどに旅というのは命がけなのだ。だからこそワラジをお寺に納めて祈る。生きる、耕す、移動する、命がけ、川、流れる……、会津三十三観音巡りを思い出して話が壮大になってきたところで、深呼吸をする。人生は旅路の途中だ。

長い長い道のりを春夏秋冬の日々に歩いていると、わかる。暑さ寒さだけでなく、風や雨だけで死にそうになる。大地の巨大な広さと黒雲と雷鳴の激しさの真ん中にぽつりと立っていると世界に飲み込まれ気絶しそうになる。人間の儚さと大自然、こんなにすさまじいものかと。
「人も 馬も 道ゆきつかれ死ににけり。旅寝かさなるほどの かそけき」は、見た目がカミングスの詩のようである。一首として、最初にそっと入り、最後にふわっと余韻を残すため句点がない可能性を推測する。真ん中の句点は風景と心情と分けるためなのであろうと今のわたしは推測する。これだけで衝撃を受けた。歌を学んでみたくなった。
今回、折口の歌について情報だけ摂取したが、折口信夫の表現したことはここで、旅におけるこころであろう。この歌における折口の思いや感じかたはわたしの感じているものと近いように思われる。折口は感じていた、名もなき人々の歴史を。それは民俗学であろう。柳田はこういう書き方をしただろうか。ただ今、わたしは折口の書籍をまだほとんど読んでいないのでこれ以上の何かを書けると思えない。これから読んでいきたい。そもそも和歌に詳しくない。
ただ折口の歌を素人ながら読んでみて思うには、忙しくしていることが恥ずかしいと改めて思わせられることである。加速する現代に人生どうあるべきだとふと浮かんでくる。

追記2
柳田国男の同書のなかで、おそらくいくつもある馬頭観音の項目を1つ読んだ。86コマ152頁から154頁にこうある。

「馬頭観音ハ日本ノ田舎ヲ見タル人々ノ何レモ由來ヲ知ランコトヲ欲スル一ノ奇現象ナリ。誤レリヤ否ヤ知ラザルモ自分は之ヲ斯ク解釋ス。今日道傍ニ立ツ馬頭観音ハ簡略ニ文字ヲ刻ミタル石碑多ケレドモ、以前ハ専ラ馬ノ頭ヲシタル石像又ハ木ノ柱ナリシヲ、道祖神(サヘノカミ)ヲ地蔵ニシテ了ヒシト同一ノ筆法ニテ、佛教ノ方ノ人々ガ辛苦シテ珍シキ経典ノ中ヨリ馬頭観音ノ名ヲ見出シ、早速其名ヲ採用セシモノナルベシ。(中略)今日ノ路傍ノ馬頭観音ハ大抵馬ガ其場處ニ斃(タオ)レシヲ供養スル爲ニ立テタリト云フモ、而モ其石ノ前ニ線香ヲ焚キ花ヲ供フルコト絶エザルハ、今後往來ノ馬ニ災ノ無キコト祈(旧字らしき)ルナリト云ヘリ。全ク以テ佛法ノ薄キ被衣(※多分「カツギ」とルビがあるが不明)ヲ著タル昔ノ馬ノ神ノ面影ナラズヤ。此故ニ自分ハ馬頭観音ノ元ノ名ハ馬頭神ナラント思ヘリ。甲州ナドノ馬頭観音ノ石像ハ、今モ馬ノ首ヲ頭上ニ戴キテハアレド、頭ヨリ下ハ眞ノ観音ニ成切ツテ、馬ノ首ハ追々ト小サク、殆ド丁髷(ちょんまげ)ホドニ退化シタル者多シト云ヘリ(甲斐落葉)。(中略)観音ラシキ様態ナク、寧ロ常陸ナドノ子安神(コヤスガミ)トヨク似テ女體ナルカト思ヘリ。(後略)」
(※ここはただの参考にしてもらいたい。それというのも一文字一文字、何度となく見直してないので完全引用かどうか保証できかねる。漢字も旧字をパソコンの変換で出せず新字を混ぜてしまっている可能性があることも先に断っておきたい。すでについていたルビはカタカナ。わたしがつけたルビはひらがなで記した)

驚くというか、やはり由来が分かっていないもののようである。そこで柳田国男さんはこう解釈した。

むかしは馬の頭をした石像または木の柱だったのを、(さいのかみを地蔵としてしまったのと同じように)、佛教のほうのひとびとが、馬の頭というような名前の観音を珍しい経典から見いだし、採用したものだ。

つまり、後からつけたものだという話であろうとわたしには思われる。そして馬頭観音の経典上の意味合いよりも、供養のために立てたり災いの無きことを祈るためだったという。人間にいかんともしがたいことを祈ったり知らせたりといった、上述わたしの話がけっこう合ってくるのではないかと思われる。

むろん、すべての生命は尊いものだという仏の教えについては、その通りだと思う。その点から観音であることはまさに合う。同時に、合わないところが、その六観音としての馬頭観音の役割とされる畜生道への魔を打ち伏せるというところである。祟らないようにとも言えるかもしれないが、一所懸命に働いた牛馬が亡くなっていきなり恐ろしく祟るから打ち伏せるという解釈がわたしには難しいものがある。厳しい戒律のある仏教らしいのかもしれないが。

ただし慈悲とも書いてあるのでそこが合うは合う。それに、あたかも理性なき欲望の動物の点を打ち伏せるという意味合いでは全く否定できなくもない。すなわち必ずしも全て合わないわけではないのだ。動物が祟るとき動物の本能が出てくることは恐ろしいと人間が恐れたからかもしれない。ただ実際の民間信仰はどうか。僧侶は津々浦々に居ると思うが、その違いが長い間そのままなのは何故なのかということである。主眼の違いというだけなのだろうか。

さらに、仏法からはちょっと違うようなものを着ているものがあり、それは馬の神の面影ではないかといい、すなわち、馬頭神ではないかと柳田さんは思っている。さらに女体にも見えるということである。とにかく、古い神様だったのではないかということ。亡くなった生命が神様になっていくというのは人間以外でも十分ありえる。赤ベコは亡くなったとき尊ばれるようになった。

馬頭観音の一般的な破邪的な定義と庶民の間で信仰されている供養や災害伝承という意味合いと、まったくずれるというわけではないにしても、やはり違うという観点から、実際におこなわれている信仰である民間信仰のほうを重視する民俗学を考えるわたしとしては、あたかも地神様のように、馬の神というほうに説得的なものがあると考える。言わずもがな、祟る魔を打ち伏せるとか冥福を祈るとか、そういう、生命への畏怖みたいなものが、混然一体となっていることは否定しようもないことは確かでもあるだろう。

最後になるが、馬と言えば福島県浜通りには、相馬野馬追という非常に古い神事がある。最終日には、野馬懸という古式の神事に神馬が妙見社に奉納される(相馬野馬追執行委員会公式ページ 野馬懸(のまがけ)http://soma-nomaoi.jp/tradition/nomagake/)。
こちらは神の馬なのである。「神の馬」がいる件につき、それは馬神という神なのか、馬たちの神様なのか、という細かい質問がないわけではないが、神のものは、少なくとも神的だろうと思う。

そうして列島各地の古い信仰、神道、仏教、キリスト教、儒教、道教、陰陽などといったものは互いにせめぎあってきているのであろう。そこにわたしは人間のおこないを見る。平和的な手段をもって平穏を目指してもらいたい。

以上


20200920
サン=テグジュペリは「あなた自身を与えれば、与えた以上のものを受け取るだろう。」と言ったとネットに書いてある。それが歴史的に事実とされ得るかという作法を今は重視しない。

ただここでは誰か、声の大きくない人々という名もなきインターネットユーザーが、フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリに関係して、そこに書き残したことが重要なのだと私は思う。

一部の家庭菜園はやせた客土であり砂質の度合いが高く、雑草すら伸びが弱い。そこで緑肥クローバーを撒くことにした。あと5袋ぐらい買ってみたがとりあえず1つ。日々に疲れることがあっても充実させていきたい。最近すずしいことは救いだ。

それで、自分のなかで譲れないものを譲ってみる。そういうことを仮定して、いったん向こう岸の世界のことを考えてみる。想像力をもてば意思が通じて向こう側の関所が開いて船もやってくるかもしれない。

日常の尊さは、失ったときに気づくのだ。焼いたトーストを一枚。ただのシャワー。ただの水道。ただの土地。ただの布団。ただの睡眠。ただの町。ただの不満。ただの怒り。ただの本。ただの歩行。ただの労働。ただの平和。ただの時間。

すべて持っていることが当たり前のときは、さらなる「無いもの」について「どうして」とか「ほしい」と思いがちだ。そういう場合、もしかしたら、本当に失っているのは、自分のなかにいるはずの自分なのかもしれない。有るものを忘れている。

いつもの何気ない日常について、そこに自分という一度きりの人生というものを与えてみると、それは明らかに自分のなかにただの日常以上のものが発生するだろう。すでに持っている物事を再確認していくことが重要だ。

不足、希望、欲求、夢、ロマン、ひとは欠乏を愛している。コンテンポラリーダンスをして、夢幻のごとくなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。最後には自分が消えてなくなる。こころの貧しき者がある種、満たされる日なのかもしれない。

渋沢栄一は、挙兵計画を中止したが捕縛される恐れがあったため、江戸の平岡円四郎という一橋家の用人(ようにん)を訪ね、円四郎家来という名目をもらい、1863年11月、家を出て、京へ旅立った。

目的を見失っていた渋沢は京で二か月を過ごした。そこに旗本生まれの平岡が渋沢に一橋家の家臣になるかと誘ってくれた。徳川家に連なるので渋沢は悩んだが、同家の朝廷との繋がりや自ら武士身分になることで嫌疑から逃れたり等できると考えた。

渋沢は次々と出世していくが、平岡が水戸藩士に斬られてショックを受け、各藩家老たちとの交流では得るものがないと感じるようにもなる。そこで、農村からの人材募集、産業育成、貨幣流通などについて渋沢は活躍できると考えるようになった。血洗島という農村での経験があったからである。自分に有るものを活かした。

渋沢は一橋慶喜が将軍職に就くことに反対だった。徳川宗家を相続しながら、関西に所領を構えて、朝廷に対して存在感のある立場になれるようすべきと考えていた。

しかし結果、慶喜は幕僚の意見を入れて将軍となり、渋沢は失望した。自分の身分も幕臣となって以前よりずっと落ちた。なにより、薩長による武力討幕路線を分散回避させることができなくなった。

このとき20代だった渋沢さんの未来を、わたしたちは知っているが、当時の彼にとっては大変なことだったと思われる。攘夷中止にしろ目的喪失にしろ地位の落下などにしろ、時代の激動という苦難が、テグジュペリの言葉のように、より精魂を込める機会になっている気がしなくもない。

NHKで紹介されている古い格言にはこうある。「The old saw about every crisis being an opportunity in disguise.」すなわち「危機こそ実はチャンスである。」(in disguise……「形を変えた」「変装して」「見せかけの」。old saw……「古い格言」)

為して成るその日まで。

……今夜も『麒麟が来る』は面白かった。特に滝藤賢一さんが演じている足利義昭(覚慶)が(自分は)死にとうない、人の命を奪うことなど恐ろしい、という話をしているシーンが印象的だった。なんとも見せる。彼の場合は、還俗すると武士になる立場だ。今から見るとどちらがどうなのか分からなくなるほど時代が違う。※還俗(げんぞく)……僧侶をやめて俗人に戻ること。

昭和時代にも人生を過ごした渋沢さんは、江戸末期に生まれ、幕末、明治、大正それから昭和という、あり得ないほど時代変革の激動時代を生き、なおかつ率先して日本社会の基礎を築いた。そこにどのような歴史や壁みたいなものがあったかをまたいずれ見ていくことにしよう。

たまたま話題にしている慶喜と義昭は、どちらも十五代、最後の将軍だったという偶然となった。16世紀と19世紀。時代間、世代間における、感覚差というものを、けっこう考えさせられることにもなる一日であった。それぞれのひとに環境差というものがあるように。日英


20200915
「はばたけ 新 大熊町 開幕」。それぞれに気持ちや考えもありながら、そうだな、ぼくらはもう、はばたいている、それも遥かなる昔から。

20200913
フランスパン用の粉で焼いたらもっちりして美味い。

この2日間は大河ドラマ『龍馬伝』とNHKドラマ『白洲次郎』を見ていた。激動の時代に挑戦し続けた人達の物語だった。思ったのは、彼ら彼女らの視野の大きさである。たほう、龍馬や次郎が妬まれるシーンもあった。

スガシカオさんはこう歌っている。

「ぼくらは位置について 横一列でスタートをきった つまずいている あいつのことを見て 本当はシメシメと思っていた」(「Progress」kōkua(コクア)、BMG JAPAN、2006)https://www.youtube.com/watch?v=RbSZFz3NrRs

このキラーフレーズは江戸時代でも戦後でも通用しただろうが、だれかが人生を間違ったり失敗してるのを嘲笑うのは恥ずかしい。挑戦している者だけが失敗できる。イエスの言う「最初の石*」なんて誰も持ってない。

※とある罪の女に対して、なんの罪もない者だけが最初の石を投げて良いと言われ、誰も居なくなった話。だれも居なくなれることも考えるちからの成せることだった。

ただし清廉潔白なひとであれば教育に成功するとは限らない。意義深い教育というのは、うまくいかない人生においてどのようにして立ち直るかを教える共に考える等にあるだろう。

わたしはかつて2年ぐらい、原発事故の精神的苦痛からアルコール依存症だったがなんとか回復したとNHKで何度も放送して頂いている。今では禁酒だけでなく禁煙にも成功し終わった。

奇跡的で非常に早くクリアできたが、覚悟までには浮き沈みの月日を要したし、別に楽勝でそうできたわけでなく、あまり言わないことにしているが、最初は畳の上で悶え転がったこともあった。

先進的な社会では依存症から回復した人の講演を聴くという活動も活発になってきているようである。わたしもなにか思い出したときには書き綴って、なにがしか寛容な社会に役立てれば幸い。

俳優の場合には、小栗旬さんの話から考えるに、役者は自分の役に入り込み精神を病んだり薬物中毒で死亡などしてしまうことがあるようだから、まず業界は役者が回復する手段を増やすべきであろう。

フランス語でパンはpainと書いてパンと発音する。英語では苦労や苦痛をいう。語源の歴史になにかあるかもしれないが、ここでは、苦労をしてこそパンを食べられるんだとか、ひとの痛みを思ってこそ人生なんだと、考えることにしたい。日英


20200905
つかの間の休息は木綿で包むように虫が鳴く。いわき市の小川町にて長福寺から西方向に見える山は、いわき市三和町の水石山だろうか。うつくしま百名山の一つ。ひとは自然のなかに仏法を見て神を知りGodを思う。分かる気がする。



20200904
海上の暮らしということで、海の文化やハワイ州マウイ郡での思い出などのことを考えていたら、サーフィンとボディーボードの歴史に興味が湧いて読んでみた。ボディーボードなら友達に教えられながらわたしもやったことがある。

『サーフィンの歴史』によると、ハワイやタヒチに住んでいた古代ポリネシアの人々がサーフィンを始めたとされ、西暦400年ごろには原形があったというから、サーフィンは約1600年の歴史がある。今回主に参考にしたのは「一般社団法人 日本サーフィン連盟」のウェブサイトにて『サーフィンの歴史』である。

ポリネシアというのはギリシャ語で多数の島々という意味なので島文化だと言える(ポリス πολύς 多くの、ネソス νῆσος 島)。地図上に三角形をもってハワイを頂点としてニュージーランドやイースター島をその圏内とする数千の島々である。

わたしが書いた沖縄に関する文章や島尾敏雄のヤポネシア論も思い出すことは付記しておきたい。日本は島だらけの島文化だからだ。日本では「板子乗り」(いたこのり)という文化も古くからあったり、呼び名はいろいろだというインターネット情報もある。「いたこ」と聞くと、炭焼きの件での「蚊こ」の話と繋がる。

ポリネシアで古代のひとびとはカヌーで漁をしていたところ帰りに波乗りをするようになり娯楽として発展したのではないかと考えられている。サーフボードの原形は、サーフボードとボディボードの中間的な形をした木製の板のようで、Olo, Alaia, Paipo(オロ、アライア、パイポ)という3つの型が言われる。

漁師の遊びだったのだから、サーフィンは漁師文化だったということになるだろう。ハワイ語では波乗りのことを「He'e Nalu」(ヘエ・ナル)と言い、たとえば波乗りで決闘した勇士の話や波乗りできなくて寂しい女性など、波乗りの詩が多く詠われているらしい。

ヨーロッパ人ではジェームズ・クック船長がはじめてサーフィンを目撃したが、宣教師たちは禁止してボードを燃やしたりし、これにより(おそらくポリネシア文化圏のメインの場所で表立っては)古代サーフィンが終わってしまったとされる。

近代20世紀初頭(1900年代のこと)になってやっと復活する。その場所がハワイであり、カリフォルニアに伝えたジョージ・フリスは日本人7名を助けたこともあった。日本サーフィン連盟は日本での(恐らく今の形での)サーフィンは戦後に始まったと考えている。フランスでは1960年頃にジョエル・ド・ロズネイ氏(Joël de Rosnay)が伝えたそうだ。

わたしはマウイ島の素晴らしい幾つかの海で、一緒に来た日本の友人やホストファミリーに少しボディーボードを教えてもらったことがあった。2011年の夏。

あのころは3・11巨大津波の放送ラッシュによる津波恐怖がまだ私の中にあってその克服から先にしなければならなかったが、それがうまくいったあとは、初心者でもたいへん楽しかった。上達というより偶然の出来だった。

どうもボディーボードのほうがコントロールは難しいらしい。確かにゴロゴロゴロゴロと大きな波の中に自分の身体が回転して巻き込まれ何も見えないことは何度かあった。そのときは上下がわからなくなる。

ボディーボードも発祥はハワイであり、1970年代初めだそうであり、最近である。とはいえ、サーフボードの原形オロ、アライア、パイポを見るに似ているから、これもサーフィンの一種だと言えるかもしれない。

そう言えばこどものころは学校でビート板(ばん)というので泳いだこともあった。これは英語版のウィキを読んでみるとPool float、swimming boards、flatter boards、kick boards、といったように読むようだ。浮き輪はfloatやswimming ring。

そしてあの棒の、パスタのマカロニみたいな浮きのことはプール・ヌードルという(Pool noodle)。英語で浮力はボイアンスィー(buoyancy)であり、これには回復力、立ち直る力、という意味もありresilienceと同じ意味だ。buoyancyには陽気さ、という意味もある。

なお、サーフィンは大陸でどう言われているか。中国語で「冲浪 chōng làng(チョンラン)」と言い、韓国語では「서핑(ソピン)」または「파도타기(パドタギ)」という。

そもそも海や湖で遊ぶことがほとんどない陸地志向のわたしはこれから稀に遊ぶシュノーケリングや波打ち際で戯れる以外に海でどう遊ぶのかまだまだ分からないが、眺望が主かもしれない。文学としてこれらの文章を書きだすことは楽しめた。疑似体験できる。ハワイ語で言えばマイカ・イ(素晴らしい)(maika'i)ことだった。

20200901
ロシア語を考えながら社会を思う。
【バーブシュカとバブーシュカの同異】

みんなむかしは赤ん坊だったーー

ある言葉、Бабушкаというロシア語がある。「お祖母さん」という意味だ。英語だとGrandmother。このロシア語の発音を日本の一部では「バブーシュカ」と言っていて「お婆さん」の意味で使っている。

たとえば『バブーシュカのおくりもの』(著 サンドラ・アン・ホーン 日本基督教団出版局)やチェルノブイリ関係の記事である。しかし、Sandra Ann Hornはイギリスの作家であり英語で記している。また、日本語のバブーシュカはGoogle検索結果だと「スカーフ」が出てくるのだ。

さらに、ロシア語学習の教科書では「バーブシュカ」なので、日本のロシア語話者の間ではバブーでなくバーブだということだから、わたしは疑問に思っていた。インターネットで十人以上のロシア語を母語とすると思われる人達の発音を確認してみてもバーブシュカであった。つまり、音のほうはバーブが本来なのだ。

コトバンクのデジタル大辞泉(小学館)で「バブーシュカ」は『《「老婦人・祖母」の意》女性が頭を覆うのに用いるスカーフ。三角形に折り、あごの下で結ぶ。レース編みで三角形に作ったものもある。』つまり、日本語としての「バブーシュカ」が老婦人やスカーフというのは相当に多数の人達が使用しているだろう。

老婦人とスカーフの話が出てきた。なぜなのか。おばあさんがスカーフしているからかもしれない。いずれにせよ、バブーシュカと発音する理由が分からない。JFKのWikipediaにバブーシュカ・レディーという項目を見つけた。ロシアでおばあさんがしているようなスカーフをしていたからそう呼ばれた女性がいるらしい。

想像するに、ロシアのおばあさんの写真を「こちら、バブーシュカ」と指さした場合、見ているほうは「これら多くの老女性がかぶっているスカーフのことだわ」と誤解しやすいかもしれないので、JFKや指差し会話によって広まった可能性がありえる。

wikiから書籍へ確定作業をしないが、とにかくこれは英語だ。英語で「babushka lady」という言葉があると分かった。英語でbabushkaはわたしの英和辞書にも掲載されていた。その発音が、バブーシュカであった。ロシアの老婦人、おばあさん、女性用スカーフとある。

この説明だと、「祖母」でなくなっているかもしれないが、日本の一部で使われているバブーシュカの意味合いと一致する。すなわち、日本のバブーシュカは英米……例えばアメリカナイズドという「中継地」を通していて、意味が揺れている気がするのだ。ちなみに、小学館は3つとも入れた。

いや、最初からロシア語のなかに全ての意味があるかもしれないが、発音だけ、アメリカに渡ったときにバブーシュカになって、日本に入ってきたのかもしれない。

いずれにせよ、バーブシュカとバブーシュカは「発音」が最も異なり、その主な意味としては、前者が祖母であり、後者が老婆またはスカーフなのであろうが、日本の一部ではバブーシュカがアメリカと同様、おばあさんやスカーフの意味でよく使われる。

しかし考えてみれば、日本でも、だれかが「〇〇祖母(ばあ)さん」と自分たちの身内を指して言う場合に、それを聞いている周囲の人達つまり地域のあいだで、「〇〇婆さん」の意味で、違う意味だが同じ音として、「通用する」ということがある。だから1つの音に2つの意味があるという、本来的な単語の使用のされかたかもしれない。

まあ、ロシア語を考えるというだけのことだから、あまりに細かいことは専門家に任せたいし既に書物があるかもしれないが。ついつい深夜までバブー、バーブと、赤ん坊のように言葉を思っていた。パパ、ママ、father, mom, 母、婆、……言わせたものもあるだろうが、赤ちゃんの声がそう決めたのかもしれない。

ある海外のジャーナリストによれば、大人たちが憎悪しあっていたり、そういう争いの荒れた言葉にまみれている日々が長いと、こどもたちまで理由なく憎悪感情をもってそう行動するようになるという。よくないことだ。

みんなむかしは赤ちゃんだったんだから、みんなの声はもともとは全部バブーとかバーブぐらいだったんだ。いまもそれとなにが違うのか。

いや言葉という宝の持ち腐れ、大人は赤ちゃんに劣っているのだろうかと争いごとを見ていると思わなくもないが、おばあちゃんからしたら赤ちゃんの泣き声みたいなものかもしれない。

最後になるが、これを書いたあとに、手元にあるロシア語辞典を調べてみることを忘れていた。調べてみたら音はバーブシュカであり、意味は、祖母であり、老婦人であった。よってロシア語ではスカーフ無しである。じっさいバーブシュカは多くがスカーフをかぶっているので、いわゆる一般的な印象としてのおばあちゃんに含まれている扱いだろう。

さらに言えば、アクセントには長短や強弱そして高低という多様性があり、バにアクセントを入れてバーブと言っていても聴きとるほうからするとバブーというように伸ばしているように聞こえる場合もある。つまり音やローマ字表記で英米に輸入されてそうなった可能性もある。

なお「姑一人で鬼千匹」とも日本では言う話もあるし、ロシア語にはBA BAという言葉もあり、おまけに、ロシア語のバーブシュカの綴りを見ていると、「Baby」に見えてくるから、とことん不思議だ。

20200831
スコップで泥を大量にとり出し汗流す。福島県双葉郡大熊町は古里なのだが霧雨の中この作業まるで辺境フロンティアで開拓民パイオニアだ。スパゲッティの缶詰じゃなく福島的にハワイのスパムミート缶詰でも開けたい気分。

いのしし被害にくわえ管理されてない農業用水路は頑丈な植物が1~2メートルほどあれこれ伸びている。放っておけば自然が里山を飲み込むだろう。本来は開始に年月がかかる他の公共事業分だと思われる。植物に覆われてる家々もある。

せっかく大熊まで来たし今回は試しに自分たちで域内での堰(せき)さらいをしてみた。さきに父のパワーショベルがないとまず短時間に終えるのは不可能だった。草がびっしり長く生えている。しかし疲労ひとつ無し。震災前よりもずっとたくましくなった。

新しくインパクトドライバーにつけるラチェットアタッチメントやバールを用いてバケット交換だけして帰ろうと思っていたのだが乗り出した船により無料で仕事をしてしまった。帰宅してブリの刺身が楽しみ。日英

コメント欄に解説ビデオをつけた。

(※ブリは学名、Seriola quinqueradiata。英名、Japanese amberjack。Five ray yellowtail。wiki)

20200827
わたしの父は若いころ日本の海を航海する500トンまでの船に乗ってエンジン部門を統括できる内燃機関の技術者であった。だが英語を用いてエンジンなど機関の調整や記録をしたりしながら、日本近海でなく遠洋漁業をしていて、幾つかの異国にも行っている。

運搬などもしたが仕事が漁業のとき獲っていたのは鰹(かつお)である。船は極めて厳しい世界だが、若いのにテーブルクロスを敷いたテーブルに食事を準備してもらっていた。ある会社では社長に大変よくしてもらった。主に農業を継いで営んできたのはその後だ。

戦後20年ぐらいか、先端的な伊豆に比べると鹿児島の船はまだ古い時代の木造のが来ていたとか船の下まで潜って行って検査することもあったと言っていた。船から海中に落ちた時計をとりにいったり、深く潜ったりしていたこともあった様子。東南アジアやロシアの人達と話したりオーストラリアに行って巨大運河を航行したり等々。わたしの海鮮丼好きはこのためかもしれない。小笠原諸島にも行ったことあるようだ。

ところで伊豆方言では「くれる」を「あげる」の意味で使うようだ(自分から相手にという方向性)。妻に指摘された私の「くれる」への違和感は、調べてみると伊豆方言だったと分かった。

わたしの場合はこう使う。受け取るほうからの「くれた」だけでなく、あげたほうから「くれてやった」「くれっから」「くんにぇ(あげない)」「くれらんにぇ(あげられない)「くっちゃ(あげた)」と使う。ふつう福島なら、くっちぇは、「腹くっちぇ」(お腹いっぱい)だろう。

わたしの文化に関東地方と中部地方それから海の話が含まれることになった。新しいイメージだと思う。昨日、妻の料理するカツオツナの味付けが驚くほど美味かったので途中の原稿を書き上げる気になった。ちなみに父に英語を教わったことは無く、たぶん教わったのは、ロシア語の「ハラショー」(Хорошо )ぐらいである。

こどものころ何して遊んだのかと聞いたら喧嘩していたと言っていた。戦後はそうだったのかもしれない。学生時代は剣道部だったそうだ。ゲームばかりしてなよなよしていたわたしとは真逆のタイプだった。わたしはロックとテクノに目覚めて遊び人になっていくのだが比べると彼は純粋だったのだろう。将棋もできる。なので私も将棋が出来る。

カツオは、英語でBonitoやSkipjackという。ウィキによればBonitoは英語でprettyであり、スペイン語のBonitoやアラビア語の由来が考えられているようだ。織田信長は勝男武士として縁起物だと考えていた。漁業で調達したのは三重県志摩市などを領地とした九鬼水軍の海賊武将、九鬼嘉隆だった。船や海というと、わたしはマウイ島で中型らしきイルカ見学船に乗せてもらったとき揺れて酔ったのを覚えている。泳いだりスノーケリングは気に入っている。

かつて源頼朝や今川義元のいた静岡県(律令制で言うと駿河国)の伊豆半島(のちに伊豆国となる。戦国時代は北条早雲など)で暮らしたこともある父はもっと上の資格をとれる予定でいたのが、受験時に実務経験がわずか足りなかったとのことで、乙種一等機関士(当時)を取得した。東京で暮らし、慶応大生とボウリングして遊んだこともあるとも言っていた。海上保安庁の巡視船で言うと500トンは中型のようだ。

わが国の船としては江戸時代、幕末の1860年、最初の太平洋横断でアメリカに行った軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」ぐらいのサイズである(参照:慶應義塾豆百科)(日米修好条約の批准書交換のため派米された幕府使節の乗船したアメリカ軍艦『ポーハタン』号に同行した船である)(幕末というのは1854年の日米和親条約の開国から1867年の大政奉還までなど)。

この船はオランダで製造され、勝海舟が艦長であり、慶應義塾創立者で蘭学や英学の福沢諭吉も乗った(ジョン万次郎も乗った)。1か月以上かかり連日荒天つづきで、船体が37、8度も傾く事がしばしばの難航だったそうだ。遠洋の船にはあり得ることだろう。嵐のときは水面が自分たちよりも何メートルも上になるほど船が海の中に、あたかも窪んでいくと父が言っていた。地上のトラクターで20度ぐらいでも私は恐ろしいのだが。

わたしもエンジン(内燃機関、発動機、原動機)について学んでみようと思ったが数式沢山あり理工学の大変な代物で、即座には無理である。日本の伝統技術は自動車産業にもあるようである。これからは電気の系統もある。技術系はいきなり無理なので、まずはトラクターの歴史のように、自動車の歴史、海上の暮らしなどを学んでみることにした。農機が登場して農家は自分が中身の分からないものを使っているという学術的意見も分かるが、分かっている農家も居るのだ。

こういう流れで彼は自動車のエンジンのこともまだ少しは覚えているようで、エンジンオイルの粘性とかタイヤの空気圧点検などをごくまれに教えてくれるのである。陸地や海上だけでなく、飛行機にも機関士が乗っていると言っていた。責任重大だ。たわいもない口喧嘩も多々するが、集団を乗せる運転手や技術者をわたしは尊敬する。

アメリカ(亜米利加)は大きい国だろう。しかし、一般財団法人国土技術研究センターによれば、日本列島の長さというのは、大体、スペインのリスボンからスウェーデンのストックホルムまでだいたい日本列島と同じぐらいの距離である。簡単にすると、スペイン南部からイギリス北部まで軽く行ける距離。(※コメント欄に画像を添付)

日本列島もだいぶ大きいのだ。アメリカで言えば、北東にあるモントリオールから南部のニューオリンズを超えてメキシコ入りぐらい、つまりアメリカ縦断できるのが日本列島であり、その長さは東西南北に約3000kmずつある。わたしは3年半で一万一千四百kmを走っているので人力がやたら負けたとは思わないが、乗り物というのはやはり便利だ。何より、夢を運んでいる。好候(よーそろー)。

(以上、父の話をひとつ素描した。写真 いわき市四倉町四倉海岸の2019年7月、撮影:吉田博子。父から聞いた話のところはだいたいの話だと思ってもらえれば幸いで細部について私がその裏づけをとってはいない。海の書籍すこしはあるが)

20200822
夏の真っ盛り。久しぶりに愛車に乗って用事だけでなくカフェにも寄った。お店の名前はキャロット(いわき市平)。40年ぐらい営んでいると帰りがけに教えてくれた。コロナ緊急事態宣言の解除後はほとんど遊びの外出をしていないが、すこしは外食に行っている。それに福島県内では感染者が数人しか居ない。久しぶりのカフェは爽快感があった。

今では知らぬ者なし岡田晴恵さんという学者は、サカナクションの曲『モス』(ビクターエンタテインメント、2019年)がお気に入りだと言っていた。「マイノリティ」と叫ぶからだそうである。歌詞曰く「君のこと(ソウゾウデキズニ)知らなくていいや 連れてく蛾になるマイノリティ(マイノリティ) 君はまた僕を思い出せるなら」。

大熊の実家ではサツマイモがイノシシに掘り返されてダメになった。この問題は県内全域で問題であり電気柵を最近よく目にする。双葉郡の場合はさらに深刻である。やはり電気柵が必要だが、値は張る。小さなスペースで5万円など(※コメント欄にあるように補助はある)。日本の食を支えるのは大変なようである。また来年。

勉強や読書のほうはよく進んでいるので雑誌などがもっと出せれば幸い。テレビを見ていたら2年ぶりに白星の投手がいて、それはすごいことだと思った。2年間も白星が、そのたった1つが、なかったのである。クロまたはゼロ。あれこれと心身ともに苦労したに違いない。プロスポーツなら当たり前と思われるかもしれないが。

毎日新聞にて富岡町の戦中の記事が出ていた。ある女性が、お米につく虫をとっていたときに機銃掃射があったようだ。もしかすると、赤とんぼの倉庫が狙われたついでに何らかの生産地が狙われたか(記事のすべてを読んでないので詳細は分からない)。

お米につく虫をとっていたというぐらいだから、薬剤を使っておらず、その数はそれなりに多く、戦中には古い米を大事に食べていたのかもしれない。コクゾウムシとノシメマダラメイガ。こめむし(コクゾウムシ)は一匹で歩いてるとかわいいんだ。震災前にその風景を見たことがあった。人間もムシもコメを食べて生きている。ナウシカの谷ではムギかもしれない。この時期はそよ風が吹くと快い。

ある時のアンケートでは人生を「〇、×、△」のどれで聞かれるとほとんどが△だと答えたが、いつでも〇でいましょうという、シンプルな本がむかしあった。その通りだろう。成功不成功、肩書や実力の上下などを考えるのもひとだが、その前に人類が100年後にも存在できているのかを考えたいものであり、人生というのは毎日がそれぞれにゴールで〇があるのだとわたしは思うことにしている。過去に縛られず未来に気をもまず、今を生きよう。(いつも日英併記)


20200815
朝からNHKで戦争証言アーカイブズTVが放送されていたので見た。

宮城、岩手、秋田についてだった。洞窟のなかの秘密工場で無駄な過酷労働をさせられたり、艦砲射撃で町が壊滅させられたり、8月15日あたりの最後の空襲だったり。75年前はつい最近である。

酒場にて英語の歌で盛り上がる戦後。有名な「震洋」の洞窟も放送されていた(特攻というと私は奄美大島と福島県の(旧)小高町の島尾敏雄を思い出す)。朝鮮戦争の戦争特需で戦後復興した町も放送されていた(戦争で壊滅して戦争で復旧して自然災害で大打撃となる)。

福島県双葉郡大熊町には「赤とんぼ」という赤く塗られた小型の特攻練習機があって高校生ぐらいの年齢のこどもらが訓練して、知覧などに行ったと、鎌田さんの本にあることは前から知っていた。「捨石塚」の話。その場所が機銃掃射を受ける映像も残っているから、間違いない。

関係あるかは知らないが、6号国道(ロッコク)沿いスポーツセンター付近に「赤とんぼ」という食事処があって、ごく幼いころ何かの集まりで食事したのを思い出す。玉葱入りの豚串カツを食べた記憶が残る。

それにしても、練習機がいつか消える特攻の「赤とんぼ」とはせつない。当時の映像を見るに、人々の希望だった様子。原発もそうだった。戦後の平和利用ということに対して、ひとびとは歓迎したのだろうと思われる。……言葉に詰まる。

その、陸軍第十四師団(師団司令部:栃木県宇都宮市)、岩城夫沢飛行場は、しかも福島第一原子力発電所のある夫沢地区にあったのである。お国のために犠牲になった人達が、二重に存在する場所となったと言われる。

ただし、とても貧しかった東北は、都市部にとって、安くて質の良い労働とエネルギーの供給源だったから、お国のために犠牲となって尽くしたという点から言えば、原発と戦争だけではなく、経済面もそうである。

他の地方でもこういう歴史は多いことだろう。戦争も隷従も、どうすれば防げるか?精神の自由を勝ち取ろうという気概が必要だと思われる。いや、いろんなところを歩いて見て回ってからでも十分遅くはない。度量には見聞が重要だ。

しかし分からないのは、なぜお盆の日に玉音放送を調整したのかだ。おそらく、筆舌に尽くせない戦災、原爆の二日間が直前にあるから、その後に急いだというのが理由だっただろうとわたしには思われる。

日に何度も放送され解説がなされたとネットにある。戦争の犠牲者も帰ってくるときだから、みんな一緒の未来永劫を、死者たちが、いまを生きる者たちに、思わせたのかもしれぬ。

はっきりとした言葉にしづらいことだが、魂というものがもしあるなら、お盆はまた、偉大なときだなと思う。この時期、すごく空が青くてキュウリが美味いのだ。

精霊馬(しょうりょううま)というのか、とにかく胡瓜をお供えした。わたしたちも浜通りに帰ってきたので、今年からだいぶ楽に墓参りできるようになった。あれから10年目。

写真 
大熊町で雉と思われる鳥、農地復旧作業中に現る8月。


20200814
いやはや、格闘家のひとたちいいね。こちら走るのも楽しさ負けてないぞ。身体は消耗品だからな。一種の文学なのだ、スポーツとは、人生に似ている。

つゆ明けの快晴が素晴らしい。小川町の家で育てるミニトマト遊び。買った土でも楽しいが、大熊町でとれたほうが美味いのは土が良いからだ。妻が最初に気づいた。しかしこちらは暮らしている家で観察できる。イモのほうどうなるものか。暑くて放り出したい気分だが、やらねば。

仕事から帰り、満タンにした自動車を掃除したり洗ってたりしたら初めて知る近所の女性が歩いてきて胡瓜と茄子をくれてった。沢山できて配っていたようだった。ふらっとくるほどの暑さでも嬉しい一日となった。この日は妻作る「うな丼」が最高だった。

仕事中に、小さな茶色の野ネズミがかわいらしく歩いてるのも見たが、やつらの寿命は短いらしい。自分より大きな動物たちに食われるからだそうだ。たしかにカラスが捕まえているのを見たことがある。

また別の田畑ではキジが居たので大熊町に雉(きじ)が居ることもわかった。濃い青みがかっていた。濃い色が居るのは湿度が高いのだとサントリー『日本の鳥百科』が書いている(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/)。英語はpheasant。日本国の国鳥に指定されているが狩猟もOKとなっているとのこと。小川では茶色、若松では極彩色を見た。その時のうれしさと言ったら。

「ちゝはゝのしきりにこひし雉子の声 芭蕉」という句が同サイトに挙げられていた。芭蕉は、行基菩薩が高野山で詠んだという「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」を踏まえているとネットに書いてある。きじは、身を挺してでも子を守ることからだろう。サントリーによると、現在でも巣を守ろうとして草刈機に頭をとばされてしまうメスが出るとのこと(わたしは聞いたことないので滅多にないのだと思うが記すことで減ることを願う)。

「焼け野の雉夜の鶴(ヤケノノキギスヨルノツル)」は、《すんでいる野を焼かれたキジが自分の命にかえてもその子を救おうとし、また、寒い夜に鶴が自分の羽でその子を暖めるところから》親が子を思う情の深いことのたとえ(引用 コトバンク)。キジの鳴き声Youtube(https://www.youtube.com/watch?v=h6H5nDgrr_E)。

高野山とは空海で和歌山の800mぐらいだそうだ。会津若松の奴田山に高さが似ている。ちょうどお盆の真ん中に、こういう言葉が出てくるのは、ご先祖様たちの霊威によるものだろうか。Memento mori. 観自在。南無阿弥陀仏。有難し。


20200812
スーパーゼネコン5社中の1社である清水建設が大きな事務所を大熊町に建設した。何部屋もある様子である。なかにはコンビニや食事スペースも入っている(Walkersのショートブレッドもあった)。通勤車たくさん。

なぜ私が行けたかというと、大熊町民専用の立ち寄り所が移動してその敷地内建物に入ったからなのであった。作業員は協力棟という場所を使用すると書いてあった。建物全体は小さな役場並みの感じがある。

彼らは(Super)「General contractor」だから私は洒落で「Tractor」で来たが、だれも居なかった。カーペットと椅子と冷えた空気と冷えた水と清水建設がしたであろう町内復旧の経過写真があった。

渋沢栄一が清水建設に関わった(公財 渋沢栄一記念財団 https://www.shibusawa.or.jp/…/speci…/2015/kikaku2015_07.html)。渋沢史料館は都内北区にある。清水建設の展示室は江東区にある。2021年の大河ドラマは渋沢栄一。

清水建設の初代のかたは越中富山県出身だそうだ。清水建設には中央大学創立者の一人である穂積陳重も関わっているとウィキにある。

会社のコーポレートメッセージは「子どもたちに誇れるしごとを。」(日本語)「Today's Work, Tomorrow's Heritage」(英語)だそうだ。事務所にも大きく掲げてあった。

家が解体された人達や猛暑での休憩にはとても便利だろう。行ったついでにここでわたしも昼食をとってみた。小説を読んだ。なんのことはない。こちらはこちらで自分の仕事をしたある日の記録。

この辺りは帰還困難区域であるが再生区域にも指定されている。建物の名前は大きいかもしれないが、実際に作ってくれたのは名もなき作業に携わった人達である。感謝

※いつ開きいつ閉じるは不明。


20200809
みちのくに八月の草がそよぐ音

エンジンオイル、ベルト、オイル漏れ、冷却水を、セルフ点検できるようになった。ロータリー爪の緩みを締め直したり。仕事は広大な農地がスッキリ保全されて爽快だ。ただし集中しすぎると神経くたびれるので休みを意識的にとりたい。

大熊町で農地の維持保全管理の公共事業を担って、名誉なこと。松の木のそばで避暑しながら、今季分の再生を完了しよう。今年の浜通りは昨年より暑くない(会津のほうが5度ぐらい高いようだ)。車内は凄まじいガタガタでまるで戦車の気分だが、けっこう操作も慣れてきた。

四輪トラクタの横転倒角は何度なのかわからないのだが、乗っている感覚としては、20や25度以上だと危なそうだ。イノシシ跡や脱輪したときなどタイヤが浮きそうな感覚があるから。

見知らぬ外国人たちがユニックで現れカタコトの日本語で(重機の)買い取りいきなり押してきた。こちらの日本語を理解しないので英語で「No, thank you. Bye bye」とゆっくりハッキリ言ったら驚いたようで、あとずさりして去っていった。外見は普通の作業員。

ちなみに、大熊の家で育てた大葉は少し出たが基準値以下(OK)だった。ミニトマトは不検出(ND)だった。どちらも敷地内比較的に線量高い場所で育てた。予想通り。大葉は次に低い場所で育ててみる。大熊町役場で測定に出した。なんら嬉しくない測定だが政治的な色のない測定には安心感がある。福島は政争に振り回され過ぎた。

いわき市の大きな夏井川は中心市街地やわたしの居る小川町なども含めかなり広い範囲の1階すべてを水没などのつらいハザードマップが配られていてこの1か月は気分的にあれだったが、河底を掘る大型重機の工事をして水量が大幅に流せるようになったなどのニュースがあり少し安心した(夏井川と好間川を掘削するようだがまだ一部距離のようだ)。

むろん、気象の極端化は進んでいるようなので、これからどのぐらいの治水が功を奏し続けられるかは未知数になってしまっている。過去100年のデータの何倍という数値が出たらお手上げとなるのか、何なのか。

藤原章生さんの毎日新聞の記事で知ったイタリア人作家パオロ・ジョルダーノによれば環境破壊が原因となっているSARS-CoV-2というウイルスの発生。その感染による病気COVID-19の症状はニュースなどを見る限り、免疫系のことや風邪のような症状が関係しているようだ。

今度は屋外で抹茶でも点てたいものだな。テレビ曰く、ロシアではSARS-CoV-2を避けるため都会の人達により、ダーチャ(дача or dacha)という田舎にある菜園つき物件の購入が流行っているらしい(質は多様)。歴史的な種類の建物のようだ。その所有者をダーチニック(дачник)ということもあるとウィキが言う。

まるで、このコロナ禍でも自由意思で動き回るサマショール(Самосёлы)だなと、3・11下でも自由意思で動き回るサマショールで避難先というダーチャを持つダーチニックのわたしは思う。とにかく、どんな時代にも先人が居たから未来があるのだ。


20200805
自分で焼いたショートブレッドが美味い。大熊町ヤマザキで買ったスコットランド伝統菓子ウォーカーズのショートブレッドが美味かったので自分でも作れたらと思っていた。レシピはシンプルだったのですぐ同じ味のが出来た。今日は南アフリカのセダルバーグ山脈で育つというルイボスティーが合う。

日本ならクッキーと言いそうだがビスケットっぽくもある。英国ではどちらもビスケットと呼ぶ。米国ではどちらもクッキーと呼ぶ。フランスではサブレーなんだとか。呼び名に混在が見られるのは文化圏が近いからだろう。単語ではよくある。


20200727
【いわき市、最大想定の河川洪水ハザードマップ】

去年の超大型台風で部分的に水害被害にあったいわき市では、おそらくすべての家々に河川洪水ハザードマップが配られたのか、うちにも配られた。0~3mというアバウトなエリアのすぐ横で、冠水程度が想定だろうが、もし氾濫となると海沿いなどに出られないエリアが私の居所なので心配は尽きない。

真ん中が市の中心地である平地区になっている。がっつり色がついている。建物だらけ家だらけの繁華街である。というより、数メートル危ないなど色のついているところこそが家の多い住宅街の町である。

濃い色は二階まで浸水、3mや5mという恐ろしい数字が並ぶ。だが、0から3mという微妙なエリアも多く、そのすぐ近くはゼロってことありえるのか、よくわからない。想定という文字も考えさせられる。地図は夏井川水系。わたしの居所は夏井川が最も大きいからだろう。

いざというとき、遅れたら避難の渋滞に巻き込まれるだろう。だがこのとき、どこに行けばよいのか、山方面は土砂崩れや渋滞も心配であり田村や川内まで遠く、安心できない。避難した先ではCovid19の3密にもなりそう。いわき市30万人。郡山市など行こうにも、しばしば郡山市は水害被災地。

いやはや。わたしは最後は、少しだけ大きな自動車があるので、そこに乗車していくしかないが、それだってすぐ水で動けなくなる車は、河川の洪水にどう対応できるのか。いっそのこと、事前に全く違うエリアに移動するか、見知らぬ土地も、、。

自然の脅威、まこと人類どうする…… 巨大な治水工事でもするか。だが日本は今まで何度、大規模な水害が繰り返されたことだろう。

※後日、あたらしく回覧板で、計画表が配布された。それによると、5年計画ぐらいで治水工事がおこなわれるようであり、早く終わるといいなと思った。

20200725
屋外を走ったら朱色の百合がちらほら。

久しぶりに東北出身で東京在住の旧友と電話で話した(私はスマホ持ってないしLINEとかもないのでSNSない人とは電話か年賀状しかない)(ビデオ通話の道具は震災で消えたまま)。ティーとはかれこれ15年ぐらい友達である。レイモンドチャンドラーや村上春樹を読むので趣味が合う。マラソンもする。いろいろ似ている。

さっそく気象病について考えを試してみた。室内で走るとき、エアコンを意識して消すよう使い方に気をつけ、びっしょり汗かいて走るようにしてみたら前の通りシャワー後、非常に頭のなかがクリアに軽い。まるで驚きの回復だ。うまくやれば即効なのか。

エアコンの部屋でも使い過ぎなければ良いのだろう。兎角、これが続けられるようなら完治かもしれぬ。人それぞれ環境や状況や体質が違うから一概に言えることではないが気象病と言いながら冷房病が原因の気象病で天気痛という人も居るということなのだろう。

過去の日記を見ると去年の1月から歩きでなくマラソンし始めている。だから夏はエアコンの部屋で走ることになって使い過ぎて、けっか、昨年の台風など異常気象の影響もあり、2年連続で気象病になっていたのだろう。いやはや、長かった。

「同時多数作業」を進めるのも昨年の四月からの開始であり、まだ日が浅いようだ。それにしてはすごい成果が自覚されるので、複数デバイスなどでなく無理もなく、休み上手であれば、悪いことばかりではないと思われる。マラソンと同時多数だけでなく、筋トレも仕事も味噌汁も2019からだ。開始が、とても多い年だった。いずれくる40代に備えている。

2017年・2018年は長い距離を歩いて1日数言語だけに(執筆以外で)読書1冊などだった。2018は禁煙も達成した(言ってないが同じ年に1度は失敗もした)。

ーーー
2011年の夏はマウイ島への避難3か月ホームステイ(アロハイニシアチブプロジェクトによる)。
2012年はボランティア。中島さんと活動する。妻と出会う。会津避難7年の始まり。
2013年はふくしま会議ふくしまの声ライター。ここで取材と文章を試行錯誤しだす。
2014年はギリシャ旅とヴェルト創刊。この辺りで中筋さんと出会ったか。はじめて文章をおおやけに書いた『戦争の教室』(松本彩子さん編集長)。
2015は紙での雑誌発行。Dark tourism Japan 1. 2.で書く。大変だったフクシマ発の編集長もした。ここで編集やフィールドワークを覚える。
2016は2か月の沖縄旅をする。青森にも少し行ってアーサー・ビナードさんとトークに出たり。

いつも皆様には本当お世話になっている。

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そして2017年からは酒やめ、日記かき、歩き出し、劇的に痩せ、タバコやめ、今に至る。やはり、旅……場所から思い出すものだな。栃木や横浜や新潟にも鬼生田にも行ったり小高にも少し行った。酒やめてからもまた劇的に変わった。2016年でやりきった感があったのだろう。もちろん飲み過ぎて死にそうだったのが主な理由だが詳しくは書かない。

「5年間」という節目で、社会の空気もそうだったかと思う。まことあれこれしているものだな。それより今は十倍も多く作業しているというのだから人間は可能性に溢れている。しかし2000年代も2010年代も、終わったんだ。英語はNoughtiesなどがゼロ年代であり、Twenty tensなどが2010年代となる。

あの頃は走るなんて考えられず、ほとんど嫌いなことだった。いまは全く変わった。走るのが楽しい。走るのが好き。人は変わる。作業の速度もべらぼうに変わっている。人によるだろうが寡作より多作タイプのほうが自分にはいいようだ。文化の味読をしたいからこそ。

時間に追われず時間を使いまくりたいものだ。はっはっは。


20200725
【気象病について】

どこに書けることもないが、気圧の変化で頭痛や眩暈がするひとに昨年ぐらいから特に自分はなっているので、自分用としてメモしておきたい。おおやけに書くとしたら、「あくまでそれは素人の読みかたでしかないが、ネットにもかなり情報があって参考になった」ぐらいだろう。

1、ストレス
Covid-19、豪雨、政争、事件、そして私の場合は当事者としての福島的負担と、まことに疲れる日々だ。さすがにこれは立派なストレスになる。ストレスは気象病の原因になるという。やたら過激な暴言の多いSNSの荒れた政治の言葉を見るのを特に今は絶対STOPしなければならない。

思えば今年の春オリンピックのころから荒れた政治系の人達が福島に来て暴れだし福島が嫌がることをしてフォロワー稼ぎスタンドプレーしているころからストレスを連続で感じることが増えた。その後にすぐコロナ、豪雨、猛暑や台風予測、などなど、メディアの非日常感も半端でない。

2020年は、休みの期間がない気がする。

2、水分の摂り過ぎ
水の巡りが滞っていることが原因だそうだ。言われてみれば、わたしはこの梅雨時期と秋台風のときは、エアコンで除湿して寒い状態のなかでマラソンしている。結果的に、汗を普段よりかいていないのに、摂取は普段通りの可能性がある。https://www.kracie.co.jp/kampo/kampofullife/body/?p=7166

3、耳のセンサーと自律神経が関係する
脳に関係するらしい。だが「マッサージや入浴は、体が温まり、血管が拡張するので、片頭痛には逆効果」という場合もあるらしい。たしかに耳や頭をマッサージしてみると気持ち良いのだがふらふらする。https://style.nikkei.com/arti…/DGXKZO88513720V20C15A6W13001/

めまい薬や酔い止めのくすりのなかに、体質によっては、効くものがあるらしく、専門家に相談の上、探してみるのもよさそうだ。https://toyokeizai.net/articles/-/165183?page=4 ただ、つねに飲んでるわけにはいかないだろうと思われる。

4、コーヒーの飲みすぎ
さいきん、わたしの見ているツイッターアカウントのなかで数人が同時にコーヒー摂り過ぎてふらふらや頭痛というツイートを見かけた。私もそうだったから、これも関係していそうである。もちろん食べ物のバランスも重要だろう。スナック菓子などあれだと思われる。

※FBではプロフィールあるので良識ある人達には言わずもがなだが、とにかくわたしは気象病の専門医でない。医学者でもない。ただの一般人であるから、ご利用は自己責任でお願いしたい。ほかにNHK視点論点やためしてガッテンを見た。

そういうわけでわたしは最近、とても眠っている。寝たら起きないぐらい12時間ぐらい寝てしまう日も多い。わたしはもとから乗り物酔いもする。

とりあえず、ネットだけでも何か構造めいたものが見えてきて、それだけでも楽になった。これなら対応しようがある気がする。

ただひとつ言えるのは、環境は、絶妙なバランスで、保護され、安定しているほうが良いだろうということだ。

なにごとにも鈍感なタイプだと良かったなあ。


20200722
はじめてパンを焼けて嬉しい。強力粉。麻の実パウダー入り。すごく簡単な機械で驚いた。うまかった。みずから料理をすることで、これからあまり好きでないタイプのパンまで買わずに済むだろう。教えてくれた妻にありがとう。

わずかだが左官工事を見学した。福島は生コンの歴史が深い。セメント自体なら明治末期から構想が始まって製造の挑戦が続いてきて、昭和24年に生コンが誕生するようである。

連日のマスコミによれば社会は大混乱で未曾有の恐慌に陥っている。……国内に敵を作らないためには正しいことが必要である……そういう趣旨のことを15世紀の外交官マキャヴェッリは言っている。ひとびとがかすかに上げている曖昧な日常の表現に耳を傾けたい。

ろっこく沿いに建てられた新しいスーパーマーケットであるイオンや商店街併設のコメリなどを回ってみた。国道沿い便利。こつこつ行きそう。園芸用品やテイクアウトを見る。Covid-19流行地域に2週間以内に行ったひとの髪カットは云々というポスターをある店に見つけ今日(こんにち)を感じた。

なかなか難しいのがコーヒー抜きである。数年前からあまり摂取しない方向にしている(特に梅雨と秋台風)。神経が過剰に反応して疲れてしまうときがあるからだ。頑張り過ぎには気を付けたい。気象病に関係するだろう。

あまり言いたくないが、わたしは梅雨と台風のとき気象病にもなることがある。よく休むことで何とかなる。エアコンも本来は苦手だがつけざるを得ない。

欧米で気象病は著名な症状だ(meteoropathy)。よく女性がなるのもネットでは見かける。NHKによると軽く汗をかくのが良いとされる。この手の症状になるのはある意味では身体が本能を回復したからではないかと私は思っている。

よく日向ぼっこもするが少しは身体を焼いてみた。青空がスーパービューティフル。太陽の光だ。いっぽう、地球は60垓㌧の重さなんだ。0が21個。それは濡れた土くれ。

今週は何か達成したという記憶は左程ないが、いつも通り即座によく眠れたという仕事をした気がするし推敲だけさらっとしていることは分かっている。庭いじりも快適だ。まあなんとか、やりたいこと、すすめていきたい。

旧友が先輩の写真展に行ってくれたりWELTGEIST FUKUSHIMAを結構読んでくれたとか、教育機関で高田緑さんの記事が学生らに大変反応良いとか聞くと、励みになる。

海の日の辺り。

昨年に比べたら遥かに体調は良い。


20200720
これほど学芸員が嘆いているのを見たことないから、不謹慎だがちょっと興味深い。うな次郎アゲにも関心を持った。食べてみたい。
https://twitter.com/mu_curator/status/1285188602725404673
「小さな博物館の学芸員」という名前のひとだ。
@mu_curator
プロフィール
博物館業界の夢と希望と闇
手取り13万 非正規雇用 会計年度任用職員(パートタイム)

20200624
今年になって明確に感じられるのは、体調の変化があることだ。昨年までと比較すると、私生活がずっと冷静沈着になったのである。

3年以上の禁酒とマラソンそして2年間の禁煙の効果に加え、この1年の個人的な志向の結果なのか実家で作業できるからか。妻のお陰は今までずっとそう。1年間みそ汁をだいたい毎朝作り続け、筋トレをするようになったことも効果覿面だろう。

しかしその反面で、時事評を直接ネットで厳しめに論じるのが重くストレスかかり、自律神経が乱れ三叉神経痛すら起こしてしまう場合がある(変化の当初は動悸ストレスのみだったが動悸はなくなった)。その日のパフォーマンスが7割下がる。

会話や読みならそうでもない。SNS論述としては少しだけ書くぐらいなら可能なようだ。感情的にほとんどならないことで、大抵の外的マイナス影響が避けられるが、自分からの発信が自分に反射してしまう。やりかたをうまくしたい。

そのうちこのデメリットもうまく乗り越えられると良いのだが数ヶ月そうなので今そこまでは難しいのだろう。神経的なものはすぐ回復するというわけにいかないが、平成後期や令和は3.11体験が違う道のりの年齢を成長させてはいる。

10代、20代、30代とは明らかに変わりそうな40代の直前における変化にかすかな驚きがある。早生まれ30代の最後の年を噛み締めるようにして精進したい。自分にできることを充実せよということだろう。

沖縄号に詳しく書いた通り、あれ以来、髪をパーマしたり大音量などは苦手になったままだ。が、今年は科学への信頼が多少なりとも回復している。音楽を聞くのは続いている。なんでも楽しめることがあるのは幸いなことだなあ。

バッハ ピアノソロ
ショパンのほうが聞くがバッハも良い。



20200620
父と珊瑚樹などの生垣を手入れした。バリカンをまた実施して覚えた。おおばさみ、ふとまる、という手作業も少しした。

20200617
きのう、大熊町のすぐ隣の富岡町では子どもたちがイモなどを植えたそうだ。わたしが子どもの頃もサツマイモを幼稚園などのときに掘ったのを覚えている。帰りは歩きだった。ふかふかした土のふくらみ。赤紫のイモ。なつかしい。むかし、みんなこどもであった。



20200616
35度。昨日の大熊町にて猛烈に屋内を清掃していた。もちろん誰も居ない。区域内は孤独だ。たくさん作業員の車は走っているものの彼らには彼らの世界がある。しかし大川原に行けば地域の人達がいると思うと安心感はある。

30度を超えた。数日前の大熊町では、とある道路沿いを軽く清掃していたらすずめの死骸を見つけた。あきらかに干からびていて中身は空っぽだが、ある角度の外側から見ると生きているように見えるぐらいだった。

そっと片付けるために棒でそうっと移動させただけなのに、自分で動かしたはずなのに、そのすずめが動いたことに自分で驚いて心臓が鼓動を早くした。記憶に定かでないが、動物の死骸を動かしたのは初めてではないか。いのち、形の意味、その迫力を思った。あるときにはアオダイショウが這っているのも見つけたこともあった。

エアコンを効かせた車で帰る。なんという快適というか、もうこれなしでは1時間以上の移動が不可能だろうと思われる。それでも狭い空間でのエアコンの涼しさというのは外が暑いのも感じ取れるもので、車内の冷涼感がそんなに快適一辺倒というわけではない。冷房病の心配もあってしばしば消してはつける。

20200609
大熊町の熊川沿いで細い竹を切って支柱を採る。大熊の家庭菜園にて、手作業で黒マルチを張った。上下に全身を使ってスイングする鍬の作業は、ごく短時間で体内にも効く相当な運動になる。妻が保管してくれていたカボチャの種を5個ほど植えたものが4つほど発芽していた。液肥をやる。

黒マルチは2回の作業で2つ出来た。畝立ては3つできた。鍬を振るときの原始的な動きが人類の遺伝子を呼び覚ます。畝立てやマルチを真っすぐにするにはひもを張る必要があるようだがしなかった。

大葉の苗をさらに分けて黒マルチのところにも10苗ぐらい植えた。これで大葉だらけになるだろう。暑い晴れの日に水やりに行くことができないのがもどかしい。生垣の珊瑚樹を電動バリカンで手入れした。生垣の部分的に欠けていた部分にツゲの木を5本、父が重機により庭から移植したのをテコした。この日は暑かった。11日からは梅雨入りらしい。

今年の春はトラクターしているとセキレイが飛んできて、運転中のわたしの周りを飛び回って遊んでいる。ときおり彼ら彼女らは耕された土から出てくる虫を食べる。おそらく彼らからするとわたしは、キャンディーを用意して時おり流れてくる紙芝居のおじさんなのである。

壊れた灯篭を接着剤で直した。井戸水がほとんど枯れていたのに少し回復したようで良かった。特に水道が使えない今は大変に便利である。もし井戸がなければ大きなタンクに水をポンプで汲むのに川を使う必要があっただろう。

かつて、にわとりを飼っていたときに貝殻を砕いて食べさせていた。1950年ごろにはそうしていた。かますという稲わらの袋に貝殻が入って売っていて、それを岩のうつわのようなもので砕いていたというその器があった。

日本国語大辞典「かます」
〘名〙 (古く「蒲(かま)」の葉で編み作ったところから「蒲簀(かます)」の意という)
① わらむしろを二つに折り、左右両端を縄で綴った袋。穀物、菜、粉などを入れるのに用いる。かますだわら。かまけ。
※書紀(720)大化五年三月(北野本訓)「絹四匹・布二十端(はたちはし)・綿二褁(ふたカマス)賜ふ」
② (①の形をしているところからいう) 油紙、皮などで作った小物入れの袋。多く、タバコ入れに用いる。以上

マルチを張ったときの道具は、「利園」というところの鍬である。全鋼。はがね。steel。ほかにステンレス鋼(stainless steel)のものもあったので使ってみたら、軽いので土を寄せたり柔らかいところだけの作業なら向いている。

堅い土も掘りたいときには全鋼のほうが重いので身体をしならせ遠心力を利用して振りやすい。ステンレスというのはクロムなどが含まれて錆びにくい。日本海軍の呼称で不銹鋼 (ふしゅうこう) ともいうが陸軍では常輝鋼といった。




20200606
きのう風景描写したその写真を見つけた。大熊町の再生区域を私達自身が手入れできるところまで来た。仲間たちが遊んだ海、山、川、野原、林、道、坂道、畔道、水路、花や虫と戯れたふるさと。ありがとう。


今時期は繁りまくるヨモギの茎が固くて耕しづらい。夏はもっと半端なく伸びてロータリー手入れが猛暑作業になる。農地は放置しておくと管理が大変だとはこのことなのだなあ。過疎・放棄・人口減少に似ているのかもしれぬ。実は果樹園も写っているが形跡はほぼ無い。耕すとまれに出てくる棚用の石でわかる。写真の山は町から見えるほとんどがそれである日隠山系だと思われる。

最近はマター運動が日本のSNSにも来ている。だが福島マターの人達のうちの一部は、微量放射能を騒ぎすぎて、どちらかと言えばNIMBY(自分ちじゃ困る)の人達じゃないかと思う。ただし同時に、もちろん福島マターの人達の多くが有難い支援をしてくれたと信じている。My life didn’t please me, so I created my life.「私の人生は楽しくなかった。だから私は自分の人生を創造したの。」by Coco Chanel(ココ・シャネル)

20200605
見上げれば夏山の蒼翠と照らされる雲の光。域内の仕事の合間に、大熊町吉田家の庭にて大葉の次は、貝原益軒が書いた博物学的『大和本草』(巻之九)によると「唐柿(ミニトマト)」5本を植えてみた(「挿し木」1株含む)(学名「LycoPersicumesculentum P. migl」、ラテン語で「食べられる狼の桃」)。

耕すのは一瞬。ただし面倒を見に車で行くと1litter / 10kmの燃料かかるので仕事の合間に時間を見つけて行う。自分にできることを精進していきたい。世界がいつも平穏であることに、祈りのちからがあることを信じながら。本日大安。旧暦卯月。(日英筆)

トマトについて
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10812105_po_ART0001429137.pdf?contentNo=1&alternativeNo=





20200529
突然としてkindleの電波が繋がるようになった。まれに起きることだが、ちょうどSNS中毒依存を脱出したく、SNSオフグリッドしようと思っていたところだったので、すごい偶然であった。もし自力でSNS断捨離なんぞしようと思ったら心構えから何からが必要で長引いただろう。強制終了が一番だった。

26日~28日の3日間だけ。非常に重要な3日だった。前後の気分を忘れないため、SNS依存した最後の日を記念日とする。5月25日は1955年に広辞苑初版が出た日だそうだ。主婦の日。アフリカデー。家庭菜園で細い竹を支柱にするため熊川沿いで6本を採った。

土曜日だろうと仕事を黙々と進めた。今日は1時間半ぐらい早く入り1時間半ぐらい遅く終わった。つまり3時間ぐらい多く仕事をした。いわきのガソリンスタンドでエアコンのガスを充填してもらった。帰宅して記帳したり記録の写真を揃えたりしていたらもう8時である。合間を見つけては勉強も非常に進めた。おかげで充実の疲れ。妻の料理頂く。

村上春樹さんの村上RADIOを聴きながらざっと書いた。



20200528
仕事を黙々と進めて、ものすごく勉強が進んでいる。実家の家庭菜園も手入れしている。大葉の苗分けをしたり、貯水しているタンクからじょうろで水をやったり(繋がってない水道の蛇口を目の前にして)。

20200527
一昨日ぐらいからAmazonのkindleがネット接続できなくなった。あまりにネット依存が激しいとkindleをいじりながら夜に思っていたら翌朝に壊れていた。こんなことって起きえるものなのだろうか。おかげでネット依存から脱却でき始めている。いつもFacebookログオンでなく、使用していないときログアウトしておくことにした。うっかり入ろうとするとログオンしなければならないのでひとつ柵が障壁になってくれる。

ツイッターはやはりSNS時事チェックと語学メモがてら続けるがツイッターでは社会性ある動きをしていないので気楽なものだ。FBのフレンズたちにまた吉田が出ていると思わせてしまうのも長い間に気が引けていたのでちょうどよかった。SNSやりまくったのだ。頃合い引き際というものが人間にはあるだろう。わたしは飛躍したい飛翔したいので時間をできるだけ自分のものにして人生エンジンの薪にしたい。から騒ぎも楽しいが、これぞと時間をかけたものを読むことに時間を使いたくなった。

仕事は、雨が降ったり止んだりで仕事をしたり休んだりで様子見ながらおこなっている。今日は原稿を書いたり印刷の案を練ったりしている。ヴェルトガイスト・フクシマの書籍サイズを変えていくために少しずつ行動してきてやっと見つけた。1週間に1つを予定しているFB投稿、どのぐらい文章を出していくか。やはり限界で「伝えたい中心を数行」だろうと思いながら多数言語で進めていくことの重要性を再び思っている。

20200526
曇りの予報であり仕事の予定だったが早朝からどっさり雨が降ったので急遽休みになった。自然相手の仕事は予想や予定が外れること多く、思い通りにいかないことのほうが多くなって、間違いや失敗を繰り返して、学びや予測の能力が飛躍的に高まるように思われる。それらすべて挑戦したものだけにあると思って地道に続けたい。


弱弱しい幼い苗を早く大海原へ苗分けしたことでなかなか発根せず相当の数が枯れて失敗。暑すぎる時間に放置してさらに枯れて失敗。2つもの大失敗が家の目の前で晒され続けている。間違えたことで恥と教訓の学びになった。ビターな味わいが深くて大人スイーツである。なんとか持ち直して回復しつつある幼い苗たちもある。


たまたま休みに成ってネットを開けた早朝に、養老孟子さんの記事に遭遇した(『養老孟司氏、「将来の夢はYouTuber」の子供達に伝えたいこと』5/23(土) 女性セブン2020年6月4日号)(https://news.yahoo.co.jp/articles/683e169135c82b587d5daccd06754a39c58d170d?page=1)。

『考えながら外に出れば、まず体が反応するはずです。そもそも、ぼくらは「意識」を信頼しすぎているんです。自分の意識が体を動かしている、と思っているかもしれませんが、そんなことはありません。人間の場合、意識は本来、外の世界に対応するためにあるものです。 自分の体は自然の一部なんですね。たとえば朝起きる。自分の意識が目覚めさせていますか? そうではなく、体が起きるから意識が戻るのです。眠るのもそう。意識して眠ることはできません。私たちは体という自然に従って生きているにすぎない。 言い方を変えれば、人間は、自分の体すら意識でコントロールできない、ということです。それなのに、すべてをコントロールできると自惚れているから、地球温暖化や公害問題も起きてくる。今回のコロナは、人間には自然をコントロールすることはできない、という教訓でもある。思い通りにいかないことがあったとき、人間は「努力・辛抱・根性」の方法を学びます。』(同記事より引用)

都会と田舎、ひとともの、意識と身体、コントロールとその不可能性、そして教訓と、実に流れるように重要なことがちりばめられていて、わたしは考え続けていきたい内容だと思った。ここでは、モノという概念が、小さな物1つというイメージだけでなく、自然世界を構成する雄大な大自然の物もそれとして考えられている。

環境も物なのだ。物物の中に人がいる。物がないところに人は存在できない。考えようによっては対人サービスのプログラムも物かもしれないし人そのものも物かもしれない。コトというのも何らかの物の集合体だとも言える。ただここではヒトとモノを対応する概念としてとらえることにより、なにかが見えてくるということであろう。コントロール不能を知ることで常なる想定外を知り謙虚になり予測や学びを深くするということは、農業や漁業などに当てはまる。

西洋的な考えではヒトは自然をコントロールしようとするが東洋的な考えではヒトは自然の中にあって生かされていてというように考えるなどとはよく言われるように思う。わたし自身、日々トラクターや道具などで農というコントロールをしようとするが、どうもうまくいかない学びや予想通りにいかない天候はアレコレ山ほどある。話はこの辺にして、どちらも両輪で理解しておくと大変豊かな思考回路になれそうだ。

今日は小川吉田家の庭にて何か家庭菜園をしたいと思ったが何個も土を買うのはお金がかかる。500円と言えどもプランターとあわせると1000円を超えてしまう。その1000円を取り返すために野菜を育て収穫するを繰り返していると半年~2年などかかるだろう。であれば土を買うこともまた楽しいとも思うが、自分で作っても良いのだろうと思うに至る。

種苗管理士、ガーデンデザイナーなどの資格を持つ酒井久雄(さかい・ひさお)さんによる『堆肥はどうしてできるのか(小題)』を読んでみる(題『自然のサイクルを手本にした200日製法 落ち葉堆肥を作ろう』ウェブサイト『園芸通信』株式会社サカタのタネ 2016年11月24日 https://sakata-tsushin.com/yomimono/tokushu/20161124_004367.html)。

『一言でいえば、堆肥は目に見えない微生物の働きによって作られます。つまり堆肥を作るのは微生物で、有機物(ここでは落ち葉)は微生物の餌になるのです。微生物(放線菌や糸状菌など好気性菌)は、有機物に含まれるチッ素や炭素などを増殖のために吸収して「分解熱」を発生します。これが微生物の活動を活発にし、高い温度が保たれるので「発酵」が活発になり堆肥作りを早めます。堆肥枠(堆肥を作るための囲い)の中の落ち葉が「微生物」の働きでだんだん堆肥になっていく様子を観察するのは、作った人にしか味わえない楽しみです。』『「微生物が活動しやすい環境を保つこと」で、有機物の分解、発酵には適切な「酸素(空気)」と「水分」を保つことが最大のポイント』

『「切り返し」とは、積んである落ち葉層を定期的に上下ひっくり返し攪拌(かくはん)して、新鮮な酸素と入れ替えることです。水分調整も同時に行います。水分過多になると酸素不足になり、落ち葉は腐敗、微生物も死んでしまいます。また、微生物の活動で発酵温度が上がると、落ち葉の中の酸素が不足しだし、微生物は呼吸ができなくなり死んでしまいます。堆肥作りに「切り返し」は不可欠で重要な作業です。』

微生物のために酸素と水と熱が必要だ。落ち葉を強く握って指の間から水が出るぐらいが水分50%ぐらいらしく、そのぐらいあればいいそうだ。落ち葉堆肥は、「切り替えし」という作業が必要とのこと。攪拌(かくはん)、まぜること。あとは「土」、「コーランネオまたは米ぬか」が必要のようだ(前者は有機物発酵腐熟促進剤)。落ち葉を四角いベニヤ木枠に入れて、水をかけて、ふみかため、土をかぶせ、次の段というようにして5段にする。そして20日に1度きりかえし。60日後に水分量を確認する。そして200日後に完成となり、ポリ袋に入れて保管するとのこと。詳細は同記事にてご確認ください。

ポイントは時間だ。丁寧な暮らしに手間暇がかかるのは不可欠で重要だが現代において速度と時間は時としてそれ以上に貴重なのである。ふつう1年もかかるところ、200日という短期間の方法をインターネットで無料で学べた、それだけで十分満足な気がしてきたので今回は実施をやめて別の勉強しようと思う。いずれにせよ、1年で土そのものは普通2mmしか自然界では出来ないと言われているのだから、その自然界の働きに人間が少し協力することで、落ち葉堆肥というものが沢山つくれるのは素晴らしいことだ。

20200525
今年初の耕起作業が始まった。久しぶりなので出来るとは思わずにそろりそろり仕事をして安全第一におこなった。



早起きの日々。大葉、青紫蘇の芽が一斉に出たので手入れ。縄文時代の遺跡からシソの種実が出土していて栽培は平安時代からとのこと。梅雨入りした。明けは7月末。降り注ぐ雨を感じて永遠に生きよう。



帰宅してサツマイモ苗を見るとやっと少しは育っている様子で安心した。次からは葉も茎も大きくなってから苗を分けたいと思う。うっかり暑すぎるときに締め切ったビニールのままにしておいたら、ただでさえ弱弱しかった苗ポッドの苗たちがずらりと枯れたりして痛々しい日々に良い勉強になっている。まだ小さいうちに大海原へ出してしまった。早く分け過ぎたのである。人間、間違えたことのほうが覚え、間違えた点についてのほうが学ぶことも多いのである。

小川町の家、つまり小川家の茶の間にて妻の料理してくれた蕎麦を頂き。本を読んでいて、ふと、ああSNSやりすぎた今年の前半だったと思った。オリンピック聖火リレーでSNS炎上が続き段々とSNS時間が増えてきてそれでも今年の3・11を無事に終えて、さてと思っているとコロナが中旬から本格化して志村けんさんの件が起きたのだった。

それから4月上旬ぐらいまでだったかはネットで情報を追い続け、それを書き留めることまでして、見通しが見えてきたぐらいであとは惰性でSNS依存が深まってしまったまま5月中旬を迎えた。後半は持ち直してきている。このままSNSオフグリッド生活の決定的重要性を再確認し続けていたい。

SNSは有難い。人と人との繋がりは有難いものだ。まるで、そのひとの個人的な話や内容が少し書いてあり表示されている、特殊透明な路上のようなものでもあるかもしれない。漫画、「ジョジョの奇妙な冒険」でヘブンズドアーというスタンド能力があって(一般的に言うと、精神的な能力が高い者たちにのみ発現する特殊能力のこと。それぞれに違う能力を持っている)、それを発動させると、ひとの頭の中を本のように開くことができるのだが、それに似ている。そしてこのことの凄まじさは言うに及ばず。

しかしSNSに自分が入り浸ってしまうことは過度に自分を表示してしまうこともありえるだろうし社会に対して何かを過度に求めてしまうなど何らかの過ぎたるが何らかの過ぎたるを招きかねないのであまり好ましいと思えない。節度が必要なのである。

気づくとこの畑の向かいに築いてあったはずの堆肥おき場がだいぶ前に除染申請したことの実施がごく最近なされたことにより破却され何もなくなっていた。もし未来が予測通りであったならば、これを破壊する必要はなかった。しかし、いくえにも重なる祭りの後に私たちは生きている。後の祭り、昔日を思えば皆そうかもしれぬ。

20200524

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共同通信 20200523 ーーー
作家の村上春樹さん(71)がディスクジョッキー(DJ)を務めるラジオの特別番組「村上RADIO(レディオ) ステイホームスペシャル~明るいあしたを迎えるための音楽」が22日夜、TOKYO FMなど全国38局で放送された。新型コロナウイルス危機で困難を抱えた人々に「しっかり上を向いて歩いていきましょう」とエールを送った。

村上さんは冒頭「もやもやとたまっているコロナ関連の憂鬱な気分を、音楽の力で少しでも吹き飛ばしたいですね」とあいさつ。自身が落ち込んだ時に好んで聞くという「雨にぬれても」や「ヒア・カムズ・ザ・サン」などを選曲した。

また感染拡大後に、万年筆とインクを使い字を書くようになったと明かし「日常の中の小さな変化をリストアップしてみたら? 大きな変化も見えてくるかも」とリスナーにアドバイスした。
番組は村上さんが「こんな厳しい時節だから、もしできれば“明日をあかるく迎えるための歌”を集めた番組ができればと思う」と発案。自宅の書斎に「ステイ」し、愛用のレコードプレーヤーなどを使って収録した。
ーーー以上

SPUTNIKというニュースサイトでは同23日『NHKや共同通信によると、村上さんは「コロナとの戦いは戦争のようなものだという比喩は正しくないと思う。殺し合うための力の戦いではなく、生かし合うための知恵の戦いです」や、「善と悪、敵と味方の対立ではなく、どれだけ知恵を絞り、助け合えるかという試練の場。殺し合う力の戦いではなく、生かし合う知恵の戦い。敵意や憎しみは不要なもの」などと語った。』というように報道されていた。

スプートニクとは『スプートニクの前身はロシア国営の国際情報通信社「リア・ノーヴォスチ」と、ラジオ局「ロシアの声」です。両社は2013年に解体され、その後スプートニクへと再編成されました。』と同サイトに自己紹介されている。

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Raindrops Keep Fallin' on My Head - B. J. Thomas
降りしきる雨がぼくを濡らす。
幸せがもうすぐだ。


Here comes the sun - The Beatles
太陽が昇る。大丈夫だ。

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何はともあれ、回復者が非常に多いこと、良かった。

久しぶりの快晴。朝から暑い。そろそろ運転に一日やそこらだけでも入れるかもしれない。地球上では貴重な「土(つち)」という物が、1メートルぐらい田んぼには深くある。その分トラクターがぬまるとエンジンにも負担だし出られなくなったり倒れそうになったりして危険なので雨ばかりだと不可能に等しい。安全第一。

時事ドットコムのニュースによると「東京、神奈川、埼玉、千葉の首都圏1都3県と北海道」について明日はコロナ緊急事態宣言のすべてが解除されるようだ。わたしの周囲ではもう何日も誰もコロナの話をしていない。恐怖、政治不信、不景気、出られない、SNS含むメディアの混乱、いろいろなことに疲れてタブー化しているのだ。間違いない。世の中はときに対立的すぎて人々が険悪になるほど分断しているので、調和的なことも必要だと思うに至っている。韓国語のフレーズを見ていたらこんな言葉があった。

푹 쉬세요(プク シセヨ)
(訳:ゆっくり休んでください)
そうだな、ゆっくり休みたい。

というわけで今日は田畑から膨大な量の水分がしゅわしゅわと神話世界のように蒸発してくれて自然に乾いてくれるのを待つしかない。土壌が土壌になるまでも、岩や有機物や微生物や水などが膨大に長い年月で働いてくれてやっと1年に2ミリメートルの厚さになる。人間にできることなどわずかしかないのだが、人間も土をあれこれとよくしようと調査分析したりしながら努力する。そういう、大自然と人間の協奏曲である土壌を、除染でたくさん取り去ったのだから農家としては悲しかったのである。

少し空を眺めてまた地面に戻ってやたら庭で元気に咲くナデシコなどの花々を見ながら庭いじりをした。カラスノエンドウなどの抜いた枯れ雑草を砂ばかりの庭の端っこに埋めていると、御影石、ちょうどいい花崗岩が掘り出された。

花崗岩は、現代ギリシャ語でグラニティス。Γρανίτης(Greek)。 Granitum(Latin). Granite(English). 記念に私の足置き「マンボウ」として所有することにした (En: sun fish)(La: mola mola)(footrest)。右向きだとゾウ。博子から見るとイノシシだそうだ。本日5月24日は『大安』と『一粒万倍日』の2つが重なる縁起の良い日だとネットが言う。


花崗岩は深成岩でもある(plutonic rock)。深成岩は、火成岩の一種であり、マグマが地下深くでゆっくり冷えて固まったものだそうだ。火山岩に比べて粒が大きい。ゆっくり冷えて固まるため、正長石(せいちょうせき)や石英なども充分成長して、「等粒状組織」(equigranular texture)となる。マグマ(magma)は岩漿(がんしょう)ともいう。マグマと同音だが異義のものには「翫賞(がんしょう)」もあり、芸術作品や風景などを味わい楽しむこと、鑑賞の意味だそうだ。

ギリシャ語でマグマはμάγμαと書き、もとは「糊(のり)」の意味だった。今は画像検索するとマグマが沢山出てくるのでマグマの意味だろう。花崗岩の構成物は、石英(En: quartz)、カリ長石(k-feldspar。正長石などであり、正長石は英語で: orthoclase)、斜長石(plagioclase)、黒雲母(biotite)、白雲母(muscovite)、普通角閃石(hornblende)などが主である。花崗岩は風化しやすいようなので足下に置けば世の儚さを思うにうってつけである。色即是空空即是色、なにごとも盤石などない。日光東照宮だって不完全なのだ。

石英は文化的に重宝された。たとえば仏教において七宝(しっぽう)のうちのひとつとされる。ほかは金や銀、珊瑚など。透明なものはrock crystal(英)と呼ばれる。日本では玻璃(はり)と呼ばれ珍重された。二酸化ケイ素という物質が結晶化してできた(二酸化ケイ素:silicon dioxide. 式はSiO₂)(英:silica)(シリカ)。シリカは、マグマの粘り気として有名だそうだ。

そうして、花崗岩としては、日本では地質年代「中生代(ちゅうせいだい)」に出来るものである。時間にすると、二億五千万年前から六千万年前だそうだ。二億五千万……ずいぶん長生きの友ができたものだ。中生代というのは「恐竜」が居た頃と同じらしい。

恐竜の英語はdinosaurである。ギリシャ語は δεινός、ディノスまたはデイノスで意味が「恐ろしい」。そしてσαῦρος, saurosの意味が「とかげ」。2つの言葉を合成して「おそろしいトカゲ」なのだそうだ。

世界最大の恐竜はアルゼンチノサウルス。Argentinosaurus。45メートル。日本最大の恐竜は、丹波竜(たんばりゅう)である。1億年前の兵庫県にいたのだそうだ。10数メートル。アルゼンチノの3分の1ぐらい。映像で見ると、顔が伸びていったゾウにも見える。NHKの映像技術者たちが現代の街並みに恐竜がいるという面白い映像にしてくれた。

丹波竜(Tambatitanis amicitiae)は成長ホルモンが非常に多く分泌され素早く大きくなることができた。ティラノサウルスの仲間と闘っていたと考えられているようだ。だんだん、あの花崗岩が、恐竜の顔に見えなくもない。ただ、恐竜というのは、イエスズメもそれに分類されるようで、ちょっと笑った。スズメが恐竜なんだって。




しかし恐竜の時代はそのうちに終わっていった。いろんな説があったと思う。いま、終末時計(Doomsday clock)(ドゥームズデイ・クロック)を見れば、いつも終わり直前であり、人類は一万年ですら続くのかまったくわからない状況だ。今年の初めBBCは、それが、気候変動などにより、残り100秒になったと言っている。賢くなったはずの人類はどうも愚かである。

いわき市に化石レプリカのあるフタバスズキリュウ(和名:双葉鈴木竜、学名:Futabasaurus suzukii )は白亜紀後期(約8500万年前)に日本近海に生息していた首長竜だそうだ。そう、福島も原子力でこれでもかというほど華やいだのである。ただし双葉郡以外では核廃絶宣言をしながら、双葉郡では原子力推進であった。いずれにせよいわゆるそのお金みたいなものは県民全体で享受し続け、その何倍か知らないほどの巨額のエネルギーは関東のイルミネーション不夜城などへ送った。貧しい人は出稼ぎに行かずともそこへ行けば福島に居られるようになった。

おごれるものは久しからずや。盛者必衰。昨今社会のあれこれは腹立つがニュースに出ている一人だけ悪いということもなかろう。政治は国民に主権がある。ひとが良いと言われたその栄華を他人ながら憐れみたい気も私には一抹ある。一般化して言うと、世の中というのは、権勢あるとき目立つときチヤホヤされるものだ。ある意味お祝いとも言えよう。それ感謝ということで良い。成り上がり盛り上がりは終わって大勢が去っていったあとしばらく諸行無常となってから、道行きの本物(友達)ってのが分かるものさ。

吉田鋼太郎さんはじめ皆さん名演だった。麒麟がくる。



20200523
少し蒸して風は静かになった。五月闇に蛙の吹奏楽団が田んぼで演奏会を催している。マウイ島のゲコは何をしているだろう。今月半分は寒い日が続くのでビニールを苗に張ったり反省点をも記録したりした。なにより身体を休ませて回復したことが大きい。ぽとり、ぽとり、雨音がして、5文字から15文字になり、メロディーがついたころのポケベルが恋しい。ニコットかアーキス。

【1、よく休み身体メンテナンス。】
【2、苗のビニールハウスを作る。】
【3、道具、農機、農業のビデオ。】
【4、ニュース・メモ】

この9週間でアメリカでは3800万人が失業するとか、これから日本では300万人が失業だ6%だとか言われ、さらには、日本の「隠れ失業者」は500万人超だと言われ、結局、日本の合計は11%などだと言われている(参考『失業者265万人増で失業率は戦後最悪の6%台:隠れ失業を含め11%台に』木内 登英 Nomura Research Institute)。アメリカでは不景気というとすぐヒヨコ(ニワトリ)を飼うようだが管理どうするのだろう。

日米ともに、どちらも戦後最悪の水準でリーマンショックを超えるとの話である。すなわち、日本の産業構造は変わると言える。単純計算したって1つの都道府県で数万~数十万人などが失業云々なのである。他にも諸々のニュース等々がひどくて気分が悪くなるところだった。大きな世界のことを小さなわたしが何をしようにも全く簡単なことではないが社会のことを少しは関心もって見ていようとは思う。

今週は4日間、走らず、運動方面で丸丸と休んで、身体を柔らかくすることに専念した。だいぶ調子が回復してきて元気である。もういいころかもしれないので、今日からは雨が多くてもせめて室内マラソンや筋トレなど、しっかり運動し始めたい。日々の仕事・学業・運動のパフォーマンスを下げたくないのである。人間、休み上手が仕事上手とはこのことであろう。

タフガイというとTom Cruise トム・クルーズ(1962年生)のすがたが浮かぶ。中国では、強くて頼もしい男性像にぴったりの「~哥(兄さん)」という愛称で呼ばれる男性スターたちがいるようだ。「汤姆・克鲁斯」これでトム・クルーズと書く。愛称は「阿汤哥(ā tāng gē)」中国人の愛称やニックネームによく使われる「阿」との組み合わせだそうだ。(参照 china radio international http://japanese.cri.cn/20190128/ab31a617-7e7a-b9f5-5abf-6528546b9d43.html


日本人だと誰が居るだろう。物書きなら、南方熊楠さん、村上春樹さん、どんどん挙げられるかもしれないが、俳優も沢山いそうだ。『麒麟がくる』ならば、本木雅弘さん(1965生)、長谷川博己さん(1977年生)はそうだろう。長谷川さんは私より少し年上である。年齢が高いのにタフで凄いということだと、三好長慶の家臣松永久秀の吉田鋼太郎さん(1959年生)、大河ドラマ繋がりなら、龍馬の福山雅治さん、山内容堂の近藤正臣さん(1942年生)、八重の佐久間象山なら奥田瑛二さん(1950年生)が浮かぶ。




【2、苗のビニールハウスを作る。】
この10日間ほど断続的に寒い日になり続けていて、今月いっぱいはたいてい曇りで雨がち40%などが続き、最低気温は12度などで高いときは23度などになる予定だ。曇りや雨で寒くなって数日したら細くて弱そうな一葉の苗がもう枯れてきたので取り換える作業を10本ぐらい行ったがまだ枯れそうな勢いである。

もっと茎が、しっかりとした太さをもってから再育苗したほうが良かったと思いながらも後の祭り。おそらく葉が4cm~5cmぐらいの大きさで節付きのものなら発根するのではないか、うちのもそれぐらいの大きさのは元気だ。ネット情報によると苗は長さ約30cmが良いとされているので、その長さになるころは相当に太いだろうと思われる。このままではそもそも節がないものばかりなのと寒さと日照不足だけで次々とやられていきそうだ。

したがってビニールハウス造りに挑戦してみることにした。コメリにて2400円ぐらいかかったことも記録しておけば後に広く植えるとき参考になるかもしれないと説明しておこう。ダイユーエイトにいったら太いツル状の苗にできる状態の束でシルクスイートが売っていた。あれでもよかったかもしれないとも思いながら(しかし昨日コメリに行って見てみたら前に買った同じものが十分な大きさに成長していた……やはり分けるのが早すぎたのだ)。ある意味では難しそうな細い苗ポッドからごく小さい一枚葉をとって挑戦する今回のは良い実験にはなるだろう。これから2年ぐらいは実験して経験を積みたいと。

屋外で11度のとき、ハウス内の気温は16度もあり、水分も逃げにくい様子だ。昼ごろになると、屋外で12度でもハウス内で22度もあった。くもりの寒い5月中旬は、朝から昼にかけて5度そして10度の差になるようである(いわき市小川町の場合である。これが大熊町に移動したらまた5度ぐらい寒くなるようだから、よくデータ情報を見ておかねばならない)。

つまり弱まった調子のまま全て枯れてしまったら怖いので、シルクスイートを保険で1束を買って、これを増やそうとしておいても良いかもしれないが、やめた。べつにほとんどが枯れてしまっても問題ない。データや実験結果を記録することが目的である。植えるときに一切なければ、買えば良いのである。すこしのことなのだから。



ベニアズマとべにはるかを入れた。2本で1つビニールハウスと計算すると3繋がりここにできた。離れて1つずつ、豆やレタスのために造った。



3、そのほか道具と農機、ビデオ
かんしょ植付器さすけ、というのを注文してみた。腰を下ろしてまた戻すを数百回もくりかえすというのは、稲の苗箱をハウスに並べたことがある人ならわかるだろうが、かなりきつく一時期しか使わない筋肉であり1週間ぐらいきつくなる。なるべくなら楽したいのである。まだ先だけど、3500円ぐらいのものが楽天ポイント利用で、950円ぐらいの送料込で、1500円ぐらいで買えた。DAISHIN DG-Z001 [らくらくイモヅル植え器 ステンレス] というのも安くて良さそうだが。

また、youtubeにはすごい量の農業ビデオが上がっている。見るのだけでも大変そうだがメモがてら勉強になりそうなものを貼り付けておこう。




畝立てマルチ張り

高畝マルチ同時施肥


マルチはぎ機

自力植えの場合

クボタ苗移植機

・家庭菜園の参考ビデオ
品種/紅はるか
植え付け日/5月上旬
使用資材/生分解性マルチ カエルーチ 135センチ
使用薬剤/フォース粒剤、ネマキック粒剤
元肥/バイタリティ、マグゴールド


・生分解マルチというのがある。使い終わったら鋤きこんでよいらしい。畝は高いほうが冠水するようなときにイモが腐らなくて助かるそうだ。


・ノリが良くて見入る鈴木さんビデオ
phは5.5-6.0が良いらしく、6.0以上は立ち枯れ病のリスク高まる。シルクスイートは非常にスイーツらしい。植えるとき先っぽの成長点を土から出しておく。しっかり苗を深く差し込む。3~4節を土の中に入れるぐらいでやる。植え付け直後と収穫前の1か月は肥料をやらない。と言っても、肥料は元肥(もとひ)だけでOK。追肥するとつるボケしやすくなる。前作で何か作ってる場合は元肥なしがいい。9分ぐらいからツル返しの意味が説明されている。


畝は高くしたほうが沢山実るらしい。芽の部分が枯れてなければ他は枯れていても生きられるらしい。窒素を抑えた肥料にする、もしやるなら。さつまいもは自分で窒素を集めるからだろう。枯れかけの苗は半分ぐらいしか根付かないようだ。


植えてから4か月後に収穫するらしい。葉が枯れかけてきたときは収穫の目安。安納芋はあまり大きくしない。

土をしっかり耕す。

雑草いろいろ。酸性の度合いによって生える草が変わる。家庭菜園


・単語メモ
ロシア語 Лягушка. Май. Винил. Lyagushka. May. Vinil.
ドイツ語 Vinyl. Mai. Ein Frosch.

「休み、農業、道具、ビデオ、記録」
「作る、走る、部屋、寒い、続く」という単語をGoogle翻訳を用いてわかり英語除く10言語を引っ張ってみた。ヘブライ語、アラビア語、古典ギリシャ語、ペルシャ語、ヒエログリフ、アッカド、古英語そしてサンスクリットや梵語などの7言語はGoogleではすぐに音が表示されてないということになる。といっても文字が分かれば調べればわかるだろうが習熟を待たないと単語が分からないということになる。

ギ "Διακοπές. Γεωργία. Εργαλεία. Βίντεο. Ηχογράφηση."
"Δημιουργία. Εκτέλεση. Δωμάτιο. Κρύο. Συνέχεια."
("Diakopés. Georgía. Ergaleía. Vínteo. Ichográfisi.")
("Dimiourgía. Ektélesi. Domátio. Krýo. Synécheia.")

ラ "Nulla. Re Rustica. Tools. Video. Recordationem."
"Facit. Sed pretium leo. Evasit. Frigido. Transeatis ultra. '

イ "Vacanze. Agricoltura. Strumenti. Video. Registrazione."
"Crea. Corri. Stanza. Freddo. Continua."

フ "Vacances. Agriculture. Outils. Vidéo. Enregistrement."
"Faire. Courir. Chambre. Froid. Continuer."

ロ «Праздник. Сельское хозяйство. Инструменты. Видео. Запись.»
«Сделать. Бежать. Комната. Холод. Продолжить».
«Prazdnik. Sel'skoye khozyaystvo. Instrumenty. Video. Zapis'.»
«Sdelat'. Bezhat'. Komnata. Kholod. Prodolzhit'».

ド "Urlaub. Landwirtschaft. Werkzeuge. Video. Aufnahme."
"Machen. Laufen. Raum. Kalt. Weiter."

ス "Vacaciones. Agricultura. Herramientas. Video. Grabación."
"Hacer. Ejecutar. Habitación. Frío. Continuar".

ヒ "हॉलिडे एग्रीकल्चर। टूल्स। वीडियो रिकॉर्डिंग।"
"रन। रूम। कोल्ड। कंटीन्यू।"
"holide egreekalchar. tools. veediyo rikording."
"ran. room. kold. kanteenyoo."

中 “假日。农业。工具。视频。录音。”
“使。运行。房间。冷。继续。”
“Jiàrì. Nóngyè. Gōngjù. Shìpín. Lùyīn.”
“Shǐ. Yùnxíng. Fángjiān. Lěng. Jìxù.”

韓 「쉬는 농업.기구. 비디오. 기록」
「만든다. 달린다. 방. 춥다. 계속」
「swineun nong-eob.gigu. bidio. gilog」
「mandeunda. dallinda. bang. chubda. gyesog」

DMM英会話なんてUknow?にてアメリカのMichael Hさんによると「肉体的な疲労回復」はこう表現する。

recovery from exhaustion
recovering from fatigue
recovery from being worn out

『例文一:
As I get older, it feels like it takes longer for me to recover from exhaustion.
年齢を重ねると疲労回復に時間がかかるようになってきました。

例文二:
As I get older, it feels like it takes longer for me to recover when I get fatigued.
年齢を重ねると疲労回復に時間がかかるようになってきました。

例文三:
As I get older, it feels like it takes longer for me to recover when I get worn out.
年齢を重ねると疲労回復に時間がかかるようになってきました。

・"recovery"は名詞で、"recovering"はほぼ同じ意味の動名詞です。上記の例文に動詞の"to recover"の方が自然です。

・"exhaustion"と"fatigue"もほぼ同じ意味だと思いますが、"exhaustion"は体の疲労を強調して、"fatigue"はもうちょっと精神的な疲労の意味合いがあります。

・"to be worn out"は「草臥れる」のカジュアルな言い方です。"exhaustion"と"fatigue"は多少硬い言い方なのです。』


【4、ニュース・メモ】
1、
NHK news
世界の感染者 約516万人 死者 33万人余 新型コロナウイルス
2020年5月23日 4時28分

アメリカのジョンズ・ホプキンス大学の日本時間の23日午前3時時点の集計によりますと、新型コロナウイルスの感染が確認された人は世界全体で515万9674人、亡くなった人は、33万5418人となっています。
感染者の多い国
このうち感染者が最も多いのは
▽アメリカで158万8322人、
次いで、
▽ロシアが32万6448人、
▽ブラジルが31万87人、
▽イギリスが25万5533人、
▽スペインが23万4824人、
▽イタリアが22万8658人となっています。
死者の多い国
死亡した人が最も多いのも
▽アメリカで9万5276人、
次いで、
▽イギリスが3万6475人、
▽イタリアが3万2616人、
▽スペインが2万8628人、
▽フランスが2万8218人、
▽ブラジルが2万47人となっています。

2、
北海道 NEWS WEB
富良野で全世帯にたまねぎ配布
05月22日 12時01分

新型コロナウイルスの影響で外出を控えている人たちに家庭での料理に使ってもらおうと、富良野市は地元特産のたまねぎをすべての世帯に無料で配布しました。

この取り組みは富良野市が地元の農協から特産のたまねぎ11トンの寄贈を受けて企画しました。
市内のすべてとなる1万余りの世帯におよそ1キロずつ無料で配布します。
富良野市の文化会館には午前9時の受け付け開始とともに家族連れなどが訪れ、事前に郵送された券と引き換えに5個ほどのたまねぎが入った袋を受け取っていました。
富良野市によりますと、いわゆる「3密」の状態を防ぐために会場を13か所に分散させるなど、新型コロナウイルスの感染防止対策を徹底しながら行ったということです。
2歳の娘と訪れた30代の女性は「家で料理をする機会が増えているので無料で頂いて助かります。娘とサンドイッチを作りたいです」と話していました。
富良野市の北猛俊市長は「自宅での生活が続くなか、気分も沈みがちになっていると思います。料理に活用して元気になってほしい」と話していました。
たまねぎの無料配布は23日も行われます。

ーーー

ニュース2のようなことを国の支援などにより食料生産大国である福島でも内外にプッシュ支援できたらどうだろうと思う。

ーーー

20200519
福島県ご出身。2600人の俳優が所属する協同組合「日本俳優連合」の理事長でもある西田敏行さんが、今日の女性自身にて、表現者たちの窮状を訴えている。概略。いまこの時期にあの法案やってる場合か腹が立つと、いま優先すべきことをしてほしいと、仰ったそうだ。みなさまの暮らしが一日も早く安心できるものとなりますよう、わたしからも応援しています。

※追記 今夕の郡山市コミュニティFM『ココラジ』ちばえみさんにより俳優ら文化の応援というメッセージとして放送いただきました。私が大熊町の復興事業に従事していることもお話ありました。ありがとうございます。

20200518
検察人事介入疑惑の件で政府は市民からの声を受け入れた。SNSでの推定実数が約500万という数字はたいへん圧倒的なのである。歴史的数字。あまりの多数に驚いたことだろう。私が見たときは同時期の改憲系が2万だったからその差250倍の規模だ。隷属するほうと自由市民とではちからの差も歴然としている。民主党が政権だったときもそうだが。2011年以来の空気感をコロナ禍が作り上げたかもしれない。それほどのことが今は起きている。いま野党が頼れるとまでは思えてないが与党がもし今の政権に居続けたいならば票直結である活発な市民との対話は不可欠になっていくことだろう。それに、日本の国際的な立場からしてこれから我々は生き残りという共通課題に取り組んでいくべきではないかな。

20200517
【学んだ農法を実践して検証日誌をつける】

ひとつ、進んだ。めでたい。もし可能な状況がそろえば、いつか無理のない範囲内で農業を始めても良いという方向性を考えている。梨の仕事は体力的に厳しく、かつ、十年以上もかかる永年作物のため再開したいとも思えない。思い出は思い出として文章にはしてある。これからは、他の作物を検討する必要がある。プロから学んでその通りにやるのも良いかもしれないが今まだそんな段階でもない。実際の記録ノートのシェアでは面白くないのでこちらは文芸的な文章にしよう。

わたしは、科学も自然恩恵の一種だと思っているので、もしできることなら、農地で生産するものは従来通り、食べ物が良いと考えている。サツマイモは利用できる範囲が広いことも良い。素人なりに失敗しながら可能性を拡大できる調査研究を、個人的に自発的に、してみたい。先祖には農業研究をしていたり地域から尊敬されていたらしき長寿の人がいる。寺子屋での教育を補佐したり、彼が座るまで集まりは誰も座らなかったなどの話が伝わる。親は農業書を沢山もっていた。

今年の初めぐらいまではオリーブをやりたくて小豆島のオリーブ状況や栽培や機械や搾油などについて海外のも含めブログや本からけっこう学んだ。あとは玉葱などについて東北でのそれらについて学んだりしていたが、あれこれ計画してみると費用や時間などの理由により、それらの事業化計画は夢に終わった。

昔から「農家三代」(3世帯が一斉に働いてやっと)と言うほど利益が上がりにくいようだが私は基本一人から考える。果樹園のときは私1人でバイト5人力ぐらい真夏でも仕事をし続けたものだった。いまはもっと体力あるからアルバイトがいてくれたら十分だ。ただ時間的なゆとりが学業のため必要であり、なかなか選択よいでない。無理して農業をしない選択肢も残しておく。

【かんしょ、さつまいも】

ーー あれこれ探すうちに、甘藷(かんしょ)、薩摩芋(さつまいも)の苗を育ててみようという気になった。

1597年に宮古島に入ったのが最初で、南アメリカ原産から海を渡り、野国総管(のぐにそうかん)が1605年に中国から琉球へ持ち帰ったという歴史があり、ヒルガオやアサガオに近い植物だそうだ。じゃがいもはナスに近くサツマイモと違う系統だとかイモは各地で人を救ってきたなど。偉人は絵本に6人ぐらい出ている。中国語は「甘薯(ガンシュ)(gānshǔ)」。農水省によると当初は甘藷(かんしょ)または唐芋(からいも)と呼ばれた。蕃藷・蕃薯(ばんしょ)という言い方もある。青木昆陽(あおきこんよう)は1735年に『蕃藷考』を記す。



まずは学んでみた農法が本当に現代農業に掲載されていた諸記事の通りになるかという検証実験的な栽培日誌を記録しながらしていきたい。それから例の検査は趣味でなく仮に出荷などする段階にまで我らが漕ぎつけるなら実施しておかねばならない。農業化は私一人でないので長い長い道のりだが、趣味で食べるのはすぐだろう。育たないほどに致命的な間違いや獣害病害虫などがないことを祈る。遊びがたのしみだ。



いま流行りの種苗法における一般品種と登録品種がサツマイモにもあるようで、(多分)その2つにしてみた。国内作付け面積の多い「ベニアズマ」と伸び盛りの「べにはるか」である。前者は水分すくなく、ほくほく。後者はしっとりスイートポテトに向いている。

細い茎の一枚葉が発根するのかも分からないので、やってみる。この農的趣味から農業へ発展するかどうかはまだ分からない。収穫するころになってイノシシが全て食べてしまって獣害で飢饉(ききん)、民俗学的に言うならケガチのような有様、なんてことはありえる。それで天候異変に強く荒地でも育成可能なものとして、災害や戦争に備えるような、救荒作物とも呼ばれる。

とりあえず生産的な活動ができで嬉しい。さつまいもをメキシコ方言のスペイン語でスラングがある。エストイ・カモーテ(Estoy camote)と言うと「わたしすごく忙しい」の意味になる。エスタス・カモーテ「¿Estás camote?」なら「きみ、すごく忙しい?」。

さつまいもは根っこに沢山なるから、水面下の白鳥のように地面下で地道な活動により非常に生産的だというほどの意味かもしれない。

『メキシコは、英語読みで、スペイン語ではメヒコ。メヒコは古代アステカ帝国の太陽と戦争の神「メシトリの大地」を意味する「メシコ」に由来する。』(引用コトバンク)

メキシコは日本と人口が同じぐらいであり、日本初の平等条約の歴史もたいへん長いようだがあまり知られていないと思うので外務省から引用する。

ーーー

『日本とメキシコは,これまで400年以上にわたり友好的な関係を築いてきました。特に明治政府発足から20年後(1888年)に締結された「日墨修好通商航海条約」は,日本悲願の平等条約であり,当時の日本政府にとって,そしてその後の日本外交にとって,非常に大きな意味を持つものでした。外交樹立から130年を迎えた今,日本とメキシコ両国の,国と国,人と人との絆について改めて振り返ります。

400年を超える日本との交流史
アカプルコにある支倉常長記念碑日本とメキシコは,距離にすると約1万キロメートルも離れていますが,実は400年を超える交流の歴史を持つ「遠くて,実はとても近い国」です。その始まりは1609年9月,スペイン領フィリピン総督代理の任務を終えたロドリゴ・デ・ビベロら373名を乗せたサン・フランシスコ号が,当時スペイン領のメキシコへ向かう途中で嵐に遭遇し,千葉県御宿沖に漂着したときに遡ります。御宿の漁民たちは異国の遭難者たちを救出し,献身的に介抱をしました。その後ビベロは,駿府にいた大御所家康とも会見し,破格の歓迎を受けました。その4年後,主君である伊達政宗の命を受けた支倉常長が,メキシコ(当時のヌエバ・エスパーニャ)との直接通商の交渉を目的に約180人の乗員とともに太平洋を渡り,1613年1月にアカプルコ港に到着しました。しかしながらこの後日本は,鎖国の時代へと入ることになります。

……略……1888年に日本にとってアジア以外の国と結んだ初となる平等条約が締結されたのです(日墨修好通商航海条約)……略……日本とメキシコの共通点のひとつに,伝統的な食文化を有するという点があります。2000年以上の歴史を持つと言われるメキシコ料理は,マヤ文明やアステカ文明の頃からの伝統食と,スペインなどのヨーロッパの食文化が混ざりあいながら育まれてきました。』

(引用「Vol.1662018年2月20日深化し続ける絆 ― 日メキシコ外交樹立130周年」https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol166/index.html)

ーーー さらに翌日

『「薩摩の芋づる、肥後の引き倒し」聞いたことありますか?このことわざ。ご高齢の常連さん達から教えていただきました。
「薩摩(鹿児島)の人は、みんなで成功者を出そうと盛り立て協力する。成功した人は自分の周りの人も芋づる式に引き上げ、みんなで幸せになる。」『鹿児島銭湯』の皆さんに出会って、より一層実感しました。納得。
対して・・・
「肥後(熊本)の人は、成功したり頭角を現した人を、よってたかって足を引っ張り、引きずりおろして邪魔する。だから有能な人が育たないし発展しない。」
なななんですと!?これ、生粋の熊本人の常連さんから伝えられ、かなり動揺しました。「覚えときなっせ」って?熊本の人、好きなんだけどなぁ。そうなのかなぁ。「薩摩の芋づる、肥後も芋づる」で行きましょう!だってこれからどんどん発展してゆくんですから。熊本銭湯はそう信じています。』(引用『熊本銭湯のことわざ「薩摩の芋づる肥後の・・・」』https://kuma1010.com/3226)

なにこれオモシロ(笑) ほかに、農水省が故事・ことわざを挙げている。

『「栗よりうまい十三里(じゅうさんり)」。「里」とは昔のみちのりを計る単位で、1里は約3.9km。「十三里」とはサツマイモのことです。「クリ(九里)」と「より(四里)」を足すと十三里になりますが、ちょうど、江戸、東京から十三里のところに、サツマイモの産地、埼玉県の川越(かわごえ)があったためです。』『焼きいも屋が「栗(九里)より(四里)うまい十三里(9+4=13)」とふれて売っていたそうです。』https://www.maff.go.jp/j/agri_school/a_tisiki/kotowaza/

川越は城下町として歴史があり、さつまいもが有名で焼き芋屋が啖呵売(たんかうり、威勢よく話して売ること)として地口(じぐち)のようなこの口上(こうじょう、ものいい)が残ったのだろう。啖呵を切るとは、歯切れのよい口調で勢いよくましくたてたり、相手をやりこめたりすること。

ほか、江戸時代に仙台藩主伊達政宗の命を受けた支倉常長がメキシコやスペインを通ってローマに向かったり、明治ごろ、榎本武明が移民団体を形成して太平洋戦争前までメキシコに植民していたことなどがある。

なんと言ってもわたしが好きなのはメキシコ料理「タコス」である。沖縄コザ「オーシャン」などで食べたタコスやマウイ島でコック職業のかたからホームパーティで頂いたタコスが忘れられない。

WELTGEIST FUKUSHIMAでエディターやライターしてくださるお二人と東京でお会いしたとき、「死者の日(Day of the Dead)(Día de Muertos)(ディア・デ・ムエルトス)」をデザインしたお店で食べたメキシコ料理を思い出す。ディズニー映画にも死者の日に関係したものがあった。『リメンバー・ミー』。そう言えば母が大学芋を料理してくれたことがあった。もさもさしている食べ物が好きでないと思った記憶があるが、今はそれこそがあれである。リメンバー・大事なもの。


ネタバレしたくない人には予告編のほうを。


いわき市ではメヒコというレストランが3種類あって、水族館的サカナ、動物園的にサルまたはフラミンゴをそれぞれ見ながら食べられるという記憶がわたしにある。震災後はフラミンゴのレストランでなら食べた。ほかトルティアチップス。(実家では「とうみぎ」「とうむぎ」と聞いたことがある)トウモロコシも、好む。

メキシコの話が意外にもあるものなのだな。まだサツマイモ栽培どうなるか全く分からない。アメリカにおける薩摩芋の話もあるようで面白そうだ。ご縁あればゆっくり考えていくことにしよう。

この5月15日、妻の博子さんは青しそ、サニーレタス、パクチー、トマト、イチゴ、といった家庭菜園用の野菜の苗を植えてくれた。この写真も撮影ありがとう。とても良い天気だった。翌日は苗をいじった。大熊の先輩がこの土を見てすぐにコメリのPB(プライベートブランドだ)と教えてくれた。

沖縄語でサツマイモは「んむ」「うむ」あじまあ辞典より。沖縄語のそれは抑揚や発音のなかで母音が多いからイモと言ってるつもりがそう聞こえるという東北のそれに近いものを感じる。わが家ではジャガイモが馬鈴薯(ばれいしょ)で、さつまいもがイモだった。うちでも本来は田んぼのところの一部にイモをかつて作ったことがあると聞いたように思う。庭の家庭菜園のほうでならたくさん何でも植えられていた。アイヌ語では不明だが明治以降に入ってきたらしいジャガイモはイモという。

中国語は甘薯(gānshǔ)。韓国語はゴグマ、고구마. ドイツ語はDie Süßkartoffel. フランス語はPatate douce. イタリア語はPatata dolce. ギリシャ語はΓλυκοπατάτα. Glykopatáta. ラテン語はIpomoea batatas. ロシア語はСладкий картофель. Sladkiy kartofel' またはБатат. スペイン語はla batata, boniato, camote.

ペルシャ語はyam bean (یام لوبیا. ). アラビア語はbitatana harawatin (بطاطا حلوة.  )。ヒンディー語はशकरकंद।. shakarakand. 現代アイスランド語はsæt kartafla. ヒエログリフだと4つあり「Id. wš3 (widgeon, 鴨の絵)」「h, khなどの音(山型の絵、stack of grain)」「wsḫ, sẖw(cup, goblet, 台形)」「pꜣt(loaf with decration)」、現代ヘブライ語はbatata(בטטה.)。


※余談 ジャガイモについては「日本いも類研究会」から引用。

Ⅰ じゃがいもの歴史『アンデスから食卓まで』
1.世界への旅立ち
(1)じゃがいもの原産地は、南アメリカのアンデス山脈から北はメキシコに至る3000~4000m級の高地とされています。アンデス高原にはインカ文明につながるいくつかの文明が存在しましたが、その食生活を支えたのが同じく南米原産の『とうもろこし』と『じゃがいも』でした。当時のじゃがいもは野生に近いものでしたので、アク抜きして粉にしたり、乾燥したものを水に戻して食用としていたようです。

(2)16世紀末にスペイン人がインカ遠征の際にヨーロッパにじゃがいもを持ち帰りましたが、当初は食料としてではなく、花としてフランスの宮殿で栽培されていたのは有名な話です。その後、冷涼な気候でも丈夫に育ち「土中に実る」ことからヨーロッパ全土に広がり、オランダなどの海外進出とともに世界各国に伝播しました。そして18世紀後半には麦類、イネ、大豆などと並ぶ主要な作物となったのです。

2.我が国への伝来
(1)約400年前の慶長年間(1600年前後)にインドネシアのジャカルタを拠点にしていたオランダ人が長崎に入れたと言われています。そのため、じゃがいもの名前も「ジャガタラ」に由来しています。日本では、飢饉の時の救荒作物として広まったのですが、さつまいもが暖地に広まったのとは対照的に、じゃがいもは寒高冷地に普及していきました。

(2)その後、明治時代になって北海道開拓が大々的に始まると、外国品種の導入や新品種の育成なども始まり、生産性も向上して全国的に栽培されるようになりました。この時期、最も早くに海外から導入されたのが男爵薯です。函館ドックの専務理事であった川田竜吉という人がアメリカ生まれの品種をイギリスから導入したのですが、これがアイリッシュ・コブラーという品種で、彼が爵位を持っていたためにこの名前で呼ばれています。
この品種は食味と貯蔵性に優れ、作りやすいので全国的に広がりました。現在でも、メークインと並んで、我が国の代表品種となっています。
』(https://www.jrt.gr.jp/potatomini/potatomini_rekishi/

サツマイモ版はこちら
さつまいもの歴史 日本いも類協会
https://www.jrt.gr.jp/spmini/spmini_history/

2020516
5時半起き。これから雨がちだが最近早起き。Eテレに出てくるロンドン出身ベニシアさんちは貴族である。彼女は社交界よりも里山のようなところを好むから日本で暮らしている。10年前からの番組「猫のしっぽカエルの手」が繰り返し放送されている。彼女はいつも名言を言う。たとえば、水は究極の贈り物で、自然は子孫からの借り物だ(次の世代に返すのだから大事にしよう)、など。本では見る言葉もテレビが関心を引き付けて言ってくれることはハイパーリアルの絵である。ベニシアさん「自分に誠実たれ」「この瞬間を生きよ」。

20200515
蒸し暑い夏のためいつもより髪の毛を清潔に保っていると妻がそのふさふさ大量の長髪を見て、「アマビエみたい」とのこと。あるときはイエス、あるときはヒッピー。あるときは教祖。あるときは乞食。あるときはアマビエ。しかしわたしはいわゆるオールバック型のヘアスタイル「タイドバック」もできる(後ろに結ぶってだけだが)。そこで本木道三の二本髭を真似し始めて伸ばしているのだ。藤原章生さんによりヒゲで毎日新聞に載ったのだから髭を大事にしたい。二本の髭は、「日本」という響きが良い。薄い髭なので、あんなふうにきっかりの形にはならないようだが。まあコーヒーとテレビをくれ社交性とか大変なんだとブラーなら言うだろう。わたしはヒゲを撫でて髪の毛を清潔にする。

20200514
〽おもしろやこの宿は縦は十五里横七里薬師詣でのその道に梅と桜を植えまぜて。

本木雅弘さんの演じる美濃守護代・齋藤道三が美濃守護・土岐頼純を毒殺させるシーンにて抹茶を点てているときに歌っていた風流踊り(ふりゅうおどり)の歌詞を歌えるようになったのが1月。織田信長の敦盛も好きだがこれも良い。信長も道三も会議を沢山しただろう。歴史ゲームでは二人とも御馴染み。

5月中旬、大熊町大川原地区にて今年度の事業会議が二桁人数で開かれ、出席を無事に終えた。何度か顔出しはしている。Iさんが「吉田さんとこの」と聞いてくれた。あとは挨拶がてら少しUさんに質問したぐらい。ほか全て聞いていた。60代ぐらいがほとんどだと思われる。みなマスクしながら。

今年度から作業方式が変わるからその確認や令和元年東日本台風被害の対応やイノシシ被害や緑肥の件や農業再生のイベントなど、議題はある。若いので下座にかけた。この会議以上に重要なのは同じ仕事をしている先輩がたのことを後で古株から少しでも聞き繋いでおくことだろう。

いわきから大熊町へ行くとき特に富岡町を通るそのたびにそれぞれの地域での記憶がせつなさを増しながら、時空を超えて自分はありえなかったはずの未来を生きている(旧)避難者たちのうちの一人になるのだと思っている。この日はスコールが来るほど熱帯的な気候だった。沖縄では最近、観測史上一位の大雨。あとは新居の整理をしたりツツドリやスズメの鳴き声を聞いてミヤマイラクサの葉を採ったり。が、会津は恋しい。

批評に付した画像はNHK大河ドラマ「麒麟がくる」にて齋藤道三のラスト会議、それは、いくさ事業だった。何のための負け戦をしたかを考えるに、わが子を鍛えてみるためだったかもしれない。わたしの会議は原発事故後の復興事業だ。ずっとある仕事ではないが、生きるために必要である。戊辰戦争で一時避難するため建物を焼き払った大熊町地域での復興期を想像しつつ。

〽日隠山この里は諏訪に太子に梅桜空と海とが照らし出す、に替え歌しよう、福島に麒麟がくることにかけて。今や静かな、復興と言えるかは相当に悩ましいものの、まあ地道な活動ということで。戦国時代や311初期の混沌に比べたら雲泥の差で、あかるいほうだと思っていたい。


20200509
いよいよ暖かく過ごしやすい。人間というのは次から次へと何かを考えるものだ。5kg以上背負い低山を数往復の10km~20kmのマラソンをしていて思う。

小川町の里地里山では藤の花の白や紫が森の緑と美しい対照であり見ごろなので妻を誘って眺めた。ゆえ今週のテクストを1300年の歴史ある藤の花のために書く。

藤(ふじ)と言えば藤原家や家紋の数々など意匠は枚挙にいとまがない。フジは、日本固有種でマメ科の落葉つる性木本だ。学名Wisteria floribunda。食用薬用がなされているが毒性も注意。山藤なら学名はWisteria brachybotrys。木に巻き付くとき左巻き右巻きの別がある。



フジの花は大嘗会(だいじょうえ)のとき天皇および祭使、また列見のとき大臣などが、巾子(こじ)にさす。巾子というのは貴族の装束のあの黒い冠の突き出た部分のこと。わたしには束ねた髪の毛の代わりに見える。

挿頭の花(かざしのはな)とは、挿頭(かざし)または髻華(うず)とも言い、頭飾りの一種である。平安時代以降、神事や饗宴の際に冠や頭髪に挿した花枝や造花のことで、かんざしの起源。福島県立博物館にて華道家の片桐さんの花を着飾る作品を拝見したのを思い出す。

推古天皇の時代からは冠位十二階の制度によってその服色などにより金などの細工的な装飾をするようになった。ほかネットにはアメノウズメのころだとか共感呪術や感染呪術だとか自然への感謝などあり。



日本現存最古の歴史書『古事記』(和銅5年、西暦712年)に出ているようだから小学館のを開くと、中つ巻の応神天皇(279頁)のところにある。

兄はもし弟が伊豆志袁止売神(イズシオトメノカミ)と結婚できるならあれこれあげるという賭け事をする。

それを聞いた母は、弟にあれこれ藤で作ってやる。衣(きぬ)、袴(はかま)、沓(くつ)、襪(したぐつ)と織って、弓矢も作ってあげた。蔓(つる)は丈夫で縄や籠などを作れる。

(わたしは会津避難の時代に奥会津地域にある編み組細工という工芸品を知ったこともあった。編み組み細工自体は縄文時代からだそうだから例えば数千年など続いている営みなのだろう。)



その弓矢を弟は女性の厠(かわや)にかけておいて、いずしおとめのかみが不思議がって持ち帰ろうと家に入るときに弟は一緒に入ってそのまま結婚して子を生んだ。

弟(はるやまのかすみおとこ)は兄(あきやまのしたひおとこ)に、賭け事に勝った。しかし兄は腹を立てて払おうとしなかったため、母が恨んで呪詛をもって兄を酷い目に遭わせる。ギリシャ神話みたいだ。

兄は許しを請い、もとに戻った。これが「神(かむ)うれづく」(神かけての賭け事)という言葉の起こりなのだそうだ。アイヌ語でカムイをも思い出す。



なんだかちょっとふんわりした話に感じられるのは、春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)の話だからか。春山のカスミ男が藤の霊力を持つと考えると確かに、今の時期の場合には、いつの間にか勝ってそうな名前かもしれない。


20200503
先週日記を書いたときからもう一週間が経った。またある作物の栽培法を学んでいる。「麒麟がくる」は6月で放送休止だそうだ。軽い筋トレを始めてそろそろ1年。効果が見えてきて嬉しい。妻作るケーキ美味い。

急に五月は暑い。30度近い高温になっている。5kg背負い20km全てを屋外では走りきるのが厳しくなる。低山コース自体が厳しい。足の回復速度も考慮して室内ランも加えたい。

NHKワールドの気象アンカー森さやか氏のyahoo newsによると、アメリカ海洋大気庁が言うに、2020年が史上もっとも高温になる確率75%だそうだ。室内運動の日数が増えそう。

休園中の子どもらが少し遠くから話しかけてくる。
「こんにちは」
「名前なんていうんだ」
「吉田です、吉田」
「うちには猫もいるぞー」
「そうなんだね」

また別のときには「こんにちは、こんにちは」だれかと思うと子どもでありシャボン玉をぼくに見せてくれた。追いかけこしてるこどもらも居たり、家族で散歩してる人達も少し見かける。

ある家に燕(つばめ)の巣を見かけた。燕のおかあさんが戻ってきたりしているようだ。このように平穏な世界、こどもらの暮らしが平穏であり続けることをただただ願う。

日英筆記
写真:小川町の四月初旬


20200502
【1年間、語学の進捗】

あれから一年も経った。語学というとイスラームの井筒俊彦さんや民俗学の南方熊楠さんを思うかもしれないが、二人は学術のほうに配分が大きいので、語学の点で言うと、皇后陛下が抜きんでているだろうと最近は思う。わたしなど英語が満足でないというのに。といっても英語にもむろん大辞典が数十冊あり古語もあって母語話者ですら途方もなくなっている。

日記を見たら33冊目に「同時学習の開始」とあった。2019年4月22日から20言語の同時学習を始めていた。それまでは「今日は2つ、今日は5つ」などであった。よって日に20目標を開始して一年が経ったことになる。特筆はこの昨日から思い出したように再開した古文書のための、くずし字である。難しいが突破したい。

内訳は、ヨーロッパ・アメリカ9言語。アフリカ・アジア12言語となっている。進んでいる言語と進んでないものと出てきている。この一年の結末としてやりきれなかったが、実際やりきれるはずだった。単なる根性なしである。ヘブライ語と韓国語と日本語関係が進んでないので頑張りたい。ヘブライ語むずかしい。

【ヨーロッパ】❪アメリカ❫ 系が、英語、ドイツ語、ロシア語、現代ギリシャ語、古典ギリシャ語、ラテン語、フランス語、スペイン語、イタリア語。アイスランドわずか。(つまり、オランダやデンマークなどは無いが、スペイン語は南米をほとんどカバーする。海外の少数言語などもわたしはやって無い)

【アフリカ・アジア】系が、現代ヘブライ語(古代ヘブライ語少し)、アラビア語、(ヒエログリフ、アッカド、少しずつ)、ペルシャ語、ヒンディー語、サンスクリット・梵語、そして、中国語、韓国語、アイヌ語、沖縄語(少し)、古文、漢文、くずし字(今月から)、現代の日本語と漢字。

とにかく、語学をペラペラ芸あいさつバカみたいな感じではやりたくない(挨拶文は大事だが雰囲気としての話)。猿真似じゃないんだから。1つ1つの語学を味わって、その言語圏の文化を学んで、あれこれ暗記しようとして、じっくり進めて行って、交流して、楽しんでいきたい。その過程でもし話せるようになれるならそれは素晴らしいことだが。先のことは何も言えない。

ほか、学ぶことを日課にしている読書ジャンルが幾つかある。憲法、哲学、民俗学、文学、農業、理系などである。「そんなにやって大変ですね」というわけじゃない。べつに無理はしてない。初心者レベルのことが多い。酒もタバコもギャンブルも集団スポーツなどもやらない。自分の人生こうありたいという設計に基づいて生きていて、ただ好きでやってるだけのメモである。一年も経ったんだ。早いのう。

20200428
ブックカバーチャレンジ

「奥会津書房」編集長の遠藤由美子さんよりお話いただきました。いつでも読書は素晴らしい。豊穣だと思います。ぼくはこれを20代前半で読み、感想文を書いたことが有ります。今さらっと読み返してましたら、当時と違う感想が出てきました。

これは短編集です。そのなかの1つである『羅生門』は、単行本にしたら10頁ほど。すぐ読めます。いまのご時世に沿いそうな文学だと思いますので、オススメ。いま出かけられないというかたには青空文庫にも置いてあります。https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html 



20200426
風吹く春、ツツジが小川諏訪神社にてきれい。躑躅(ツツジ)は江戸時代に伊藤伊兵衛によって本が描かれたり尾形光琳に描かれたりするほど愛されている。出雲国風土記(733)に初見。

福島の野鳥を学んでいるが鶯(うぐひす)が素晴らしい。鶯の こゑ聞きそむるあしたより 待たるる物は 桜なりけり 本居宣長。鶯の 声を聞きつる あしたより 春の心に なりにけるかも 良寛。

高橋源一郎さんのラジオも聴いている。カミユが出た。震災前から小説を持っていて震災直後にネットのない環境で自然と思い出していた。今は全集を持っていて1年前に長い原稿を書いてはある。フランス語を学ぶ動機づけの1つにもなる。

今朝は赤坂憲雄さんが福島民報新聞にて日曜論壇ご執筆が発行になったので、感想を寄せる。アイスランド、ドイツ、デンマークの辺りに居るであろうオラファーの番組がEテレで今朝ありそれを観ながら。https://www.facebook.com/weltgeist.fukushima/posts/2967558150004169?notif_id=1587865392632459

妻の博子さんが作る麻婆豆腐(Má pó dòufu)が美味い。ときどき雑誌を発送したり記帳したりする。WELTGEIST FUKUSHIMAは大学や中学校で教材にしていただいたりして大変ありがたい。

クライシスになっても自分ができることは山とある。物言わぬツツジ、葉桜、風、山、光、水……、みずから発生的に、影響しあって、それらは咲く。すべてはそう語っている。


・尾形光琳の絵。
・ウィキが言うには元禄5年(1692年)に伊藤伊兵衛により刊行された『錦繍枕』が世界最古のツツジ・サツキの専門書なのだとか。



「コロナ以後の社会を求めて」赤坂憲雄(福島民報新聞2020年4月26日)にWELTGEIST FUKUSHIMAのFacebookページにて寄せた文章



おっしゃる通りに存じます。地域から学び、生きる。福島の問題は今やローカルな課題というだけのことに追い込まれる可能性がたいへん高まっています。もう落ち着いているらしき原発事故で十年先SDGsなどや環境倫理のことよりも、今すぐ危険なコロナ・パンデミックで日本中の人々は監視社会に落とされる目前にて当事者になりつつあるのかもしれません。それらは例えばクライシスという点でも交差するとは思いますので、なんらかの接続は図られるでしょう。ちょうどいま、オラファー・エリアソン(Olafur Eliasson)がNHKのEテレで放送されています。オラファーは2017年に、we-ness (わたしたち感)ということを言いました。そして、繋がりということを意識させられるアート作品でした。つまり、それぞれがそれぞれに、時代と地球に向き合う意識を持っていると、ローカルになりそうな福島のこともグローバルになっているコロナのことも、同時に、なんらかの近代的または地域的なことからケミストリーを起こして、細々とエナジーを交流させていって、結のように、なにかを創造していけそうだと、考えます。今のところ。それにしても、繋いだ記憶が、石というのが、やはりそうなのかと、思いますね。皆様お大事になさってください。
WELTGEIST FUKUSHIMA
編集長 吉田邦吉

20200421
今朝、不思議な夢を見た。

夢のなかでぼくら夫婦はなぜか会津若松市の神明通りの二階に泊まっていた。朝になって、太陽とその光が非常に明るく道に差してきていた。

二人で窓からをその光景を眺めたりしながら、ぼくはその夢のなかで、夢を見た後だったらしく、小さなテーブルの上でその絵を描いていた。

妻がそれを横で楽しそうに眺めていた。その絵がまた見たことも無い不思議なものであった。

たいへん嬉しそうな笑顔でいる妻が、木の臼から大きな大きな無限の雲のように、真っ白い餅をこれでもかこれでもかと振りまいていたのである。

その際限のない餅に陰影をつける描き込みをしているところで、夢が覚めてぼくは起きた。

昨秋に会津からいわきに引っ越してきたのだが、会津に遊びに行きたいと思っていた気持ちも現れたかもしれない(いわきの実際の部屋は明るいのもあるかもしれない)。

夢の中で泊まっていた部屋の場所は、神明神社の向かいぐらいの位置だった。いま、検索してみると、神明神社の祭神は、なんと天照大神などである。こんなことってありえるんだ。

これはこれは、民俗学的にも物凄い吉夢だろうとただおどろいている。その絵を同じように再現してみた。夢のなかの自分のほうが絵はもう少し上手なようだ(笑)

良き日をお過ごしください。

(2言語筆記)

※この絵日記は反響が大きかった。

20200419
ほっとする。ただ、ほっとする。穏やかな日々を守りたい。日常を優しく包むような晴れやかな春に癒される。むすかりの花が庭に咲いている。

今週は農業用水路にて油圧ショベル重機作業のため自分はバケット交換に参加した。バール、トラロープ、ラジェット(ラチェット)、モンキースパナを使用した。素人なので間違って手や指を骨折したりしないよう阿吽の呼吸で気を付けておこなった。

この間は、要は関節部分などに油さし、用語で言うとニップル部分にグリスガンでグリスアップ作業をした。そのグリスが今回、一張羅の事業名の刺しゅう入り作業着についたのは勲章だ。

この資格は戦争になっても鎖国になっても人々を救う領域で準兵士だから気分は良い。(※まだ自分は作業系のほうを持ってません。すぐ取れますね。結局ほとんどの技術は修練次第)。

あと暇だったから花を撮影したり蛙の卵らしきのを撮影したり重機作業を見学したり、軽トラのなかで読書したりいくつか語学したりした。

堺市にある浅香工業により作られる金象印の鋤簾(じょれん)を用いて水路をさらってみたら会津若松で買ったコンバットブーツも2011年3月に田村市大越にいたときユニクロから寄付されたデニムも泥まみれになった。まだ水道なし。

写真の通り、土地に入って仕事が長い間できなかったことでイノシシが掘り崩してしまった水路、畔、土手が多い。高齢化や担い手不足もこれに近くなる。

暖かい日差しのもと会津漆器ノダテマグで茶を飲み、妻作るお弁当が美味かった。アーユルヴェーダ(梵: आयुर्वेद、ラテン翻字:Āyurveda)の知恵が詰まっている。

家では最近とうもろこしピザや純豆腐(スンドゥブ、순두부)がうまい。筍(たけのこ)も最高だ。むかしは家に竹林があって。そう言えば「竹林はるか遠く」という本があった。

熊川で空へ向かうは竹林



ところで、

Yahooニュース『未来に残す 戦争の記憶』に当雑誌ライターの高田緑さんのお母様がご証言なされました。中島良さん。ぜひともご覧ください。

あの戦争のとき、郡山市への空襲は、4月でした。ご取材ご編集ご掲載アーカイブズ等々ご尽力いただき心よりありがとうございます。

中島さんは太平洋戦争における福島県地域の郡山空襲の生存者となります。この美しく温かい青空を、みんなの民主主義によって、守りましょう。

ヴェルト雑誌では『戦争の小窓』5号に高田さんのご執筆あります。これを読みつつ、映像を拝見して、思いを馳せたいと思います。こおりやま、好きな場所。

https://www.facebook.com/weltgeist.fukushima/posts/2935320406561277

(2言語筆記)


社会的なエッセイをこちらの日記に残すことはあまりしないが、なかでも反応が大きかったfbエッセイをたまには挙げておこう。

【コロナ禍中に働く人の人権を守ろう】

ひとは誰でも「つぎは自分かもしれない」と思っているところなのに、最近ではコロナウイルスに感染することをあたかも犯人探しのように感染を悪だと誤解した話しぶりだったり、情報収集して追跡して特定しようとして公開していたり誰それが感染拡散しているなどと噂レベルじゃないかと思われるものまでSNSで平然と過熱していてライク多数でもあり、心の荒れ加減が、ひどい状態です。

リスクと直面しながら最前線で日本を守ってくれているのは、ごく普通の仕事です。医療や学校やスーパーの職業人とその家族の人権保護むろん緊急課題ですが、ごく普通の仕事してる人達も同じく日本を支えているのです。そんな彼らほど感染しやすいのです。政治家の人達が言うべきことは家に居て遊んでようだけじゃないんです。その人たちを差別したり傷つけたりを野放しにして、名誉や尊厳などの人権を守らないでどうするのでしょう。

ツイッターなら、「地名 コロナ」で検索してみてください。例の如く、感染者のデータマップも作られています。もういい加減、その手のマップは人権侵害に繋がりますからやめましょう。そろそろ人権侵害やめるように声を挙げていきましょう又はそういうのに協力しないようしましょう。行政の作る穏健なものだけで十分です。ウイルスを運ぶのは人だけじゃなく、マイクロ飛沫や物体もそうなので、エアロゾルや物資の流入を自粛させることは困難に近いのです。その場で最初の感染発覚が感染源とも限らないのです。

もし自分が感染して、その職業やら年齢やらどんどん特定されて人々から後ろ指をさされるような気持ちで数年も暮らすことを考えてみてください。疲れますよ。放射能に関しても人権派なグループの一部こそが同じことをしてきてるのです。命を守るだの安全だのという大義名分というのは、戦争だって出来るぐらい、正しい目的は悪い手段を間違って正当化してしまうことに気づきましょう。

コロナに感染した人達は社会からやりたい放題に指さされていいなどという理由ないのです。放射能があるからって社会からやりたい放題に人権侵害していい理由などないのです。誰しも、その後の人生がその地域で長い長い間、あるのです。そちらの名誉回復のために、簡単に他人の人生を傷つけた人達は、何もフォローや協力をしてきてないのです。ただただどこまでも大義名分の主張のみ。庶民を攻撃しないでください。憲法や法律で守られているのです。

いずれ、このコロナ禍が長い期間を経て落ち着いてきたころ、あれこれの証拠をもって、政治に対して交渉したり、または国家に賠償を求める訴えを起こす業界団体も出てくるかもしれません。そのとき同時に、個人が個人にやられたと言って法廷に呼ぶこともあり得るでしょう。だれでもちょっとうっかりしたぐらいのことに目くじらの人達もそんなに居ないと思いますけど、他人の病歴やプライバシーや営業権などへの行き過ぎた損害行為には、気を付けてくださいね。


20200418
東京から関東へ、関東から東北や甲信越へ、各県から田舎へ。重層構造的な(自粛や待機が本来だが実質的な)「来るな」の発表を見ていると、放射能不安が重層構造的だったことと全く同じだと分かる。近代から非近代または貨幣から実物の順番だと言っても良い。病気、不安、隔離、そして差別が副産物となる構造だ。コロナは人々がなにかでうまくいけば防げる減らせるという点は希望ではある。

「来るな来るな」がだんだん、「コロナ」の子音だけ残り「krn」となって「来るな」に聞こえてくる。どこでも病床ほとんどなく、どこにでも高齢者も居てどこにでも重症化する可能性ある若者や子どもは居る。関西や九州での差別問題は根深そうだ。みんなが平等に守られると良いと思う。浜通りなんて原発があるから県外から来るななんて言ってたら原発がまた大変なことになってしてしまうよね。福島県は何の発表をしたんだろう。ろっこくの消毒を重点的にしてほしいのだが。

原発事故はひとを分断したと思うが、コロナはひとを分断かつ分散した。抗わねばならない。今度はトーキョー発という本が出ても不思議でないぐらい。最前線で頑張ってくれる人達ほど感染しやすい。ある場所で最初の発見されたひとが最初の感染源というわけでもない。もちろん放射能とコロナは違うものだから質の多様さも多岐にわたる複雑さもありながら、3・11福島の件に経験と関心が深い人達は重なって見える面も多々あるだろう。この話は言わずもがな、東北の蝦夷などの歴史、たとえば「勿来(なこそ)の関」などの件から私は発生している。

病院、学校、保育園、スーパーなどといった、最前線の人達とその家族を差別してはいけない。原発作業もそうである。放射能のときと同じように、コロナウイルスについても、冷静に、客観的、かつ、科学的な共通理解を深めて、過剰な恐怖や不安に打ち勝つことが必要だ。ツイッターを見ていると人々の苛立ちが激しくなっているので心配になった。ここにこそ(政策やメッセージなどにより)大人数に影響力を及ぼせる政治家やマスコミの出番ではなかろうか。

今日の福島県いわき市での大雨は、大雨(土砂崩れ)、暴風、波浪、洪水、という「警報」だった。幸いにも大きな水害なく数時間で過ぎていったが、避難所でのコロナ対策について、なんでも後手後手の日本では感染予防の対策などどこでも事前にしてあるはずもなく、悪い予感そのままになってしまって、青くなる。複合災害を受けている福島が、また水害コロナという複合災害を受けるとしたら、いったい何重の災害を受けているのか、数えられなくなりそうだ。

20200416
わずかでも、今までと比べれば少しは明るいきざしが想像できるかもしれないニュースを見たくなった。国内感染者数が1万人を超えて全国に特措法の緊急事態宣言が出たことに伴う。

なにかとこのウイルス災害は暗い面が重視されてしまうのも仕方がないことだが。それに論文とか見解というのは無敵でもなんでもないと人々が分かっていると良いなとSNSを見ていて思う。

・回復者多数の事実
いま恐怖は科学よりも一万倍ぐらい蔓延している。だが、ほとんどが回復しているという客観的な事実を忘れたくない。放射能に関してもアンケートは不安が少し残るが今の日本では科学的理解が概ね不安を乗り越えたと言える。

・武漢封鎖の解除
無症状者に関して指摘があるようだが、とにかく解除は解除になった。毎日新聞によると抗体検査や検査が実施されているようだ。検査によると中国に無症状者が数千人いるという報告となったとTBSが報じる。

・イタリアがピーク時の半数へ
産経新聞によると、感染者は16万人ぐらいだが、1日の新規感染者が3千人を下回ったのは3月14日以降初めてで、ピーク時の約6600人の半数以下となれたとのこと。

・スペインがピーク過ぎに近づく
BBCによれば、4月4日、ペドロ首相がそう述べた。

・アメリカがピーク過ぎた
トランプ大統領がそう述べた。

・ドイツ、オーストリア、デンマーク
コロナ規制を緩和し始めて居る。

以上、列挙は、たまたま目に留まったもののみ。

・マスクに関して
人混みに入ったあとは1時間ぐらい越えたら新しいのに交換したほうが核をマスク表面から吸い込まないためによさそうだと私個人は思った。これも前向きな情報だ。

・経済と生活の展望
非常に深刻で恐慌になる見通しはあるが、お金が社会から消えてなくなったわけではない。市民の言論活動によって政治が動いたのは良かった。国会内閣は平和的な経済活性化のために政治手腕を競争して見せるときだろう。平和的で親切な世界を希望する。

さて、緑茶を飲もうかな。
昨日と今日は長い時間眠り。
今年初。

(※わたしのは当然ながら普通の人による日記です。すべての医療的情報に関して私は素人なので、専門的な情報の摂取は自己責任でお願いします。)

(2言語筆記)



20200415
当雑誌のFBページでシェアした東大の医師のかた曰く、現況からするとワクチン開発から集団接種完了まで数年らしく例えば5年間ぐらいかかり激しい格差社会が訪れて10年後に終息する等々。(https://www.facebook.com/weltgeist.fukushima/posts/2942275012532483?notif_id=1586942486558258&notif_t=page_post_reaction)。その前に、いったん第一波で小康状態となったら何ができる。

2020年3月中旬からあれが大規模化してオリンピックの話題が消えてあっという間の4月中旬。つい数日前に大雨で避難勧告が千葉にあったとき悪い予感が当りひやっとした。避難所での感染症対策がないこと。これから毎年毎年、台風や大雨もひっきりなしに来るが一時避難も自己準備しかないか。

旅行者すらほとんどいなくなった各国はブロック経済になりがちで紛争も起こりやすい状態になる。民俗文化の維持も危うい。いろんな危機が訪れると人々は騙されやすくなる。民主主義は護られるか、崩壊して独裁型か。生への意地といったことを人類は持てるか。感染者は1万人に達する勢いだが実際は数万人いると言われる。

もしコロナ1~2年なら我慢するかともなるだろうが、なんと5年になるかもしれないというと、今は忍耐だけするのでなく、この荒れ狂う社会の大嵐が長い長い間に、自分の人生は何ができるのかをきちっと鍛錬ないし模索したらより充実できるということなのかもしれない。テレビはすっかり過去の収録再放送になった。ステイホームは屋内避難に少し近いが全員ではない。

来年には10年になる311被災から生きるということに、新しい災害……の中でも「恐怖」という精神災害が垣間見える。経験という名の財産になれれば社会に役立てるだろうが、いまを生き抜くことが先決だ。それでも人生にはゆとり楽しさが必要だ。基本の健康と。さて風呂入るか。

テントウムシは枝の先まで来ていくところがなくなったらお天道様に向かって飛ぶから天道虫なのだとの話がネットに書いてあった。明るい方向へ進むのだと考えておきたい。

写真:いわき市小川町で見つけた天道虫。3月。



20200412
ところどころ咲く山桜が可愛らしい。最高に清々しくてたまらない春が来た。いわき市小川町の霊峰『二ツ箭山(ふたつやさん)』(710m)の麓、里山地域にマラソン中わずか入りヨモギやワラビを採った(採り過ぎないことが大事)。手ごわい山らしい。

会津民俗研究会で培われたのは「山の眼」だったかもしれない。森のなかで、もと家の場所なども分かる。いわき市に来たので、いわき市、双葉郡、相馬地域ことを学び始めたい。現代では山の道が衰退していると滝澤会長が仰っていた。

山の名前の由来は、暴れ赤猪を弓の名人が二の矢で射止めた伝説からだとか男体山・女体山という二つの岩峰が矢に見えるなど諸説あり、700年以上昔、修験者により開かれた霊峰だそうで人々の信仰を集める。

この辺りは源義家を思う。彼の詠んだ「吹く風を勿来の関と思えども道も背に散る山桜かな」はいわき市好間町の大熊町第一仮説住宅のあった好間工業団地に石碑も桜もあり、避難してきたとき真っ先に毎日の散歩中に見えて覚えた。

彼らが来て東北の蝦夷(えみし)たちを服属させていった11~13世紀のことなのだろう。福島県では全般的にそうだろうが、地理的に言って東北のなかでも早い段階で蝦夷は平定されている。

「暴れる赤猪」というのはもしかしたら、そういう軍団名や部族名または家名などを持った蝦夷だったかもしれない、平定された後、地域を知る専門家として機能して、結婚していっただろうとわたしは想像する。

この当時、人間は、強風、寒さ、荒波、その土地で動物、野菜、山菜の情報、それで命がけ。幾世代も一生をかけたことだろう。いわば郷土史家や土着農家漁労採集家は土地の経営に必須である。最近3年間以上を屋外で走り続け体感で思う。

『Dark Tourism Japan2(東邦出版)』にて、会津三方道路と明治の自由民権運動についてぼくは執筆した。写真家の中筋純さんと一緒に学び、中筋流のフィールドワークを教わったのだった。このとき喜多方市にも訪れて蛭川さん(現在の蛭川靖弘市議会議員)と飲んだことを思い出す。

この時期まだ私は長距離を歩きだしたりしてないが、西会津町に農水省の公共事業で研修生として町や里山を自動車で巡ったり町おこしなどに参加する仕事をしていた。西会津町の近世までのつづらおれ道や塩の道などのことを考えていると、峠道の辺りに旅人のために『お助け小屋』を建てたとあり、道を歩くことの厳しさを思ったものだった。

採った山菜について。蓬(よもぎ)は沖縄方言で「ふうちばー」と言い、アイヌ語では「ノヤ」と言う。わらびは沖縄方言で蕨(わらび)だけでなく「こども」の意味があり、アイヌ語では「トゥワ」と言う。

ついに余裕でマラソンできるほど暖かくなってきたか。外界からの情報を制御したことで日常に戻れている。9年前からそうだ。だが知識情報というのは、あれこれ教えてくれて、有り難いものではある。

餅は餅屋か。SNS公開で書くだけでなく自分から率先して首相官邸や政党に意見を実名で提出してみた。今回はあまり多く言及されてなさそうな、福島原発や東京電車の関係を消毒作業や物資プッシュで感染症から守るなど。

世界と日本の平穏を祈る。
かわいらしところどころにやまざくら

参考文献
・福島の山々 MOF
https://yamayama.jp/futatsuya/futatsuya.htm

・山と渓谷社 ヤマケイオンライン
https://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=18393

※日英筆記。ギリシャ、ドイツ、フランス、ロシア、中国語でも軽く記録。




20200405
きっと、あの大戦のとき、ひとは命の儚さを思ったに違いない。敗けた反省でやっと持てた、象徴と非戦の憲法を守り、平和と協調そして独裁でなく民主主義をもって、大事に生きようと思ったことだろう。憲法にそう書いてある。

わたしの祖父はわたしに遺した言葉がある。「くによしは、までいに食べて、えらい」(までいとは丁寧の意味)。戦争へ行って帰ってきた祖父が高齢になり、隠居屋で西瓜を食べていた幼い自分に遺した。『戦争の教室』松本彩子 編著(月曜社)に書いた。

実は、わたしがゆっくり食べようと意識しだしたのはごく最近である。子どものころ普通で密かに教室一番の早食いなことがあったから、その点をずっと気にしていた。古株の言うことは予言ですらあった。なんて射程が長いのかと驚嘆する。この言葉を掘り下げていきたい。



いわき市小川町の、小高い所にある小川諏訪神社の有名な枝垂桜が満開だった。数日前には福島中央テレビ直川貴博さんも生放送で来ていた。やっと少しずつ走り出せているが天気はまだ展開に幅がある。

マスク2枚政策の風刺的な絵や写真に思う。布マスクに若干の効果があるのはむろん認める。ただし以下だ。人様世間様には意見もあるしストレス解消もしたいのである。

「人間は意地悪が好きである。けれども、それは片目や不幸な人々に対してではなく、高ぶった幸福な人々に対してである。そうでなければ、まちがっている。なぜなら邪欲はわれわれのすべての動きのみなもとであるからである。そして人間性も。人間的なやさしい感情をもった人々の意にかなうようでなければならない。」(引用§41『パンセ』ブレーズ・パスカル 河出書房)



これからIoT、IoX、IoHなどといった人や物事のデジタル化は進み、逆に、農業や田舎の価値も見直される。食料自給率と国防。面白くて楽しいこと自分にできることをし続ける。パソコンの勉強を少しだけしてるし普段からビル・ゲイツのTWなども見てる。ユヴァル・ノア・ハラリもそう。いろんなものを読む。人々の暮らしが平穏であることを祈る。

しかし、3月は情報を追いかけてメモして考察して日々消えていく時事をSNSに書くだけでほとんど終えたと言っても過言でない。精神疲労した。自分たちの身と社会を守るには必要だったと積極的に捉えている。そろそろ仕事の開始も近づいているので、一秒でも早く自分の生産を再開したい。妻が淹れてくれるマサラティーなどが美味い。一瞬、一瞬、今この時の有難みを、共有しよう。

さらさらと しだれざくらの 満開に


20200329
3月は実家の仮補修をしたり農業を学んでいた。作物選びが難しく幾つかの作物の栽培法を学習して社会状況などを調査した。どれも人手または年月かかり労力と費用かかり収入は低い。

農業は担い手不足で食料自給率が非常に低い理由が分かる。農作物は敬意が市場価値に反映されていないのだ。梨の樹のような手間暇凄まじい永年作物はゼロからだと10年かかる。

春になって久しぶりのマラソンにいつも通りの負荷をかけたら左足の甲を痛めて休みだが諦めず筋トレ。天候は乱れがちなのでちょうどよかった。読書に執筆などできる。まだまだ前途多難だな。

100年超えするつもりで頑張ろうワニ。

写真:
3月末
いわき市小川町の風景 
菜の花の花言葉
・快活=cheerfulness
・明るさ=the brightness
・財産=assets
・小さな幸せ=small happiness


20200328
オラファー・エリアソン《太陽の中心への探査》。きれいだな。『オラファー・エリアソン展の展示風景が公開。都現美の臨時休館延長で』(美術手帳)20200327

20200324
いわきいちご『ふくはるか』に合わせて早めのお花見を妻と小川諏訪神社にて楽しんだ。爽やかに美味であった。有名な枝垂桜が、そろそろである(桜祭り自体は中止な分、ゆっくり見られる)。

すでに人々は少し来始めていた22日。今月は会津旅行の予定を延期したが、物事は循環なのでわずかでもお出かけして人生を楽しむことにした。キャンプなど屋外レジャーは今も人気だそうだ。

この、大きな粒ぞろいの素晴らしい苺は、いわき市小川町にある草野いちご農園で作られている。園の女性たち曰く、小川でもまだあまり知られてないとのことだった。

……確かにいわき全体というとトマトが最も有名かもしれない昨今であるので、皆さん草野いちご園もぜひお見知りおきを。じゅわっと甘みの豊かな果汁が口の中いっぱいに広がって幸せ。

小川町枝垂桜に苺かな (日英)

※ふくはる香……平成18年に登録された福島県オリジナル品種。育てるのは難しいが非常に美味。



20200322
㊗【赤坂憲雄館長ご退官に寄せて】

このたび、福島県立博物館、赤坂憲雄館長が、17年間の勤務をなされまして、2020年度から、新しい舞台へ進まれることになりました。40代で就任し鍛えてもらったとのことです。

学芸員の皆様と震災以降は地域密着で日夜ご活動なされてきたこと大変印象的で、有難く存じます。ちょうど同じ年度でわたしも会津若松市に居ての日常的な博物館通いを卒業したので、偶然同時期となりました。

福島県立博物館での館長講座は、いつも博識に満ち溢れ示唆的で面白かったです。赤坂先生はいつも私達を導いてくださる話をしてくださいます。文も凄いですが赤坂さんのもう一つの真骨頂はその語りにあります。

赤坂先生とわたしは2013年春からのお付き合いで2014年春から館長講座へ通いました。大学へ行って大学院を卒業するぐらいの年月、6年間を通い続けました。毎回が濃い内容で思い出深いです。

今は寂しい気持ちですが、赤坂先生はこれからも福島県に関わってくださるとのことで安心しております。むしろ、新たなるステージへ進まれることを拍手喝采で大感謝大声援したいと思っています。

3・11の被災で辛苦の底に居たわたしに生きるちからを与えてくれたのは赤坂先生の著作とご本人からの友情でした。どうもわたしのような自由人がいいと言ってくださいます。仲間に入れてもらえて感謝です。

妻と一緒に2014年春にお会いに行ったのを思い出します。あっという間で信じられない気持ちのほうが大きいですが、これからもわたしは日常的に赤坂先生のご著作で学びを深くして、先達恩師の背中を仰ぎ見て過ごす所存です。

地域文化を支える大成果のご退官、
まことに、おめでとうございます。

福島に梅の花咲く弥生、令和二年
吉田邦吉 吉田博子

写真(2019年4月19日 平成31年(令和元年・2019年)4月19日。福島県立博物館館長講座『風土の旅学 東北編 第一回 松尾芭蕉』にて本日、館長の赤坂憲雄さんが「ぼくの助手です」と私を紹介してくださいました。それで、松尾芭蕉の『奥の細道』(現代語訳)における「発端」のところを音読いたしました。「見事でした」と仰られてよかったです。学友の須田雅子さんがご撮影くださいました。宝物。ありがとうございます。)

20200318
今朝の羽鳥モーニングショーで京都大学教授の藤井聡さんは、国民の生活がこのままでは死んでしまうから給付系や減税や社会保障について国債での云々をと、実に力説していた。

その藤井さんとぼくが星亮一さんのおかげで繋がれたのが昨年か一昨年ぐらい。と言っても直接にご挨拶できたわけではないが。世の中そんなことってあるもんなんだな。

藤井さんは安倍内閣のブレーンだったかたで保守思想家の西部邁さんの雑誌だった『表現者(現クライテリオン)』を継いだ保守系の編集長でもある。

西部さんはもと左翼過激派でもあった。内ゲバ事件の報道を見て反動したと思われる。良く分かる。西部さんは他界して、政治思想の中島岳志さんや経済学の中野剛志さんたちが有名人となった。左派からも人気ある藤井さんは筆頭メジャーだろう。

西部さんの本なら『学問』とか読んでた。20代のころ会津藩と長州藩の学者や大熊町の郷土史も知り始める。たほうで法学部だったから例えば東大憲法三羽ガラスの名物講義テープの山も面白かった(今は激レアで買えないかも。普通でない博識の授業だから)。つまり両翼を読んで育った。

保守系と言えば一昨年ぐらい福島市のオフグリッドで赤坂さんのトークに来てた保守系の有名な雑誌のイケメン編集者のかたとも知り合った。聡明なかたという印象だった。保守系にもいろいろな系統がある。

たとえば柳田国男は農政官僚だった。この話はしっかりまとめていきたいが、そんなことを悠長に考えているとお迎えが来てしまうので、いまここでは藤井さん西部さんに絞って書いた。どのみち何度も書く。

思想は実生活に役立ちにくいとか思われるかもしれないが、決してそうとも限らない。庶民生活の根本から笑顔だと良いなあと願う思想があれば、経世済民の志が立つ。

20200312
みなのおかげで雨の日も風の日も総合雑誌WELTGEIST FUKUSHIMAを続けてこれて本当に嬉しい。2014年の秋からライターとして独立してすぐ、新米めちゃくちゃ編集長を始めたのだ。もう5年と半年になることができた。雑誌出版は五周年となれている。一般の無名人なのに編集長だなんて大きな肩書に恥ずかしくもなるんだが。

いつも「恩師」と「赤坂さん」を分けて書いているが、それは偉大な人物の力をなるべく借りないよう敬意を表すため気を付けているからであって、同じ人物である。そうでない場合はそうでないと分かるような書き方を僕はしていると思う。普段あえて言ってないけど、「ものが読める人達には読めること」ですよね。

とにかくそれで、赤坂さんに相談したり、妻に相談したりで、よく考えて決めたことだった。長い射程を持って、決断したことだった。あの質素なサイトづくりだけで時間がすごいかかった。逐次刊行物のコードをとるのも手続きしたりなんだり。編集発行や流通なんて無知の素人だ(今でも)。それに、雑誌運営を決めても、もし仲間たちが呼応してくれなかったら、元気10%だったに違いない。ふわりとみなが集まってくれる場所に成れたと個人的には思ってる。

いつ開いても自分の雑誌は面白い。昔で言えば、自力のガリ版刷り学生思想雑誌のようでもあるが、ヴェルトはカラーで印刷所が印刷して大人が書く。今時あまり見ない雑誌だ。世間では雑誌名とか商号みたいなものをころころ変えてリニューアル演出をしたがる人達が結構いるけど、ぼくはそれをなるべくしないことのほうを重視している。

そもそも名前を考えるのは大変な作業だ。伝わるのも年月かかる。自分の名前と命名を自分から大事に育てる。石の上に三年、しんどい五年、十年で半人前、しかし一日一日は一流で大切にしていきたい。なんて。ほんと感謝、読んだり書いたりしてくれる人達のおかげ。編集冥利に尽きる感謝感激。

20200311
9年間が経ちました。

本日から1年間は10年目となります。10年目は、新型コロナウイルス感染症対策のことでも二重の風評被害や自粛など、経済的な災害を二重三重と「複合災害」を被(こうむ)り続けていくようです。

まず「令和元年房総半島台風」があり、「令和元年東日本台風」があり、「(令和二年)新型コロナウイルス」ですから、さらに時代は変わったと感じます。「東日本大震災と大津波と、東京電力福島第一原子力発電所におけるレベル7の大事故」の傷跡がいまも続いているここで。

ひとさまのこころから何から、向こう100年200年かかる話であり、また、向こう1000年つないでいかれるヒストリーになると思います。むろん、忘れることで楽になることも多分にあるでしょう。



最も原発から近い大熊町の自分ですが、運よく、すでに解除された大川原地区に隣接したエリアで「特定復興再生拠点地域」に指定されました。見えにくい縁の下で復旧・復興に日々実践してきた皆様のご尽力ありがとうございます。

これから1~2年ぐらいでの解除が、「町の第二次復興計画」によって予定されます。わたしが法的に原発避難者でなくなる日が近づいています。そのころ11年間の12年目で。この計画自体が一部で安定しだしたのもこの数年のこと。まだ世間の共通認識はできていません。

区域に関係する町や村の生活や風景が一夜で戻るわけでは全くありませんが、わずかでも「避難指示の解除」は今や、平均線量の大幅減少とともに嬉しいことですから、【帰還前】段階での幸せを味わっていきたいと思います。

たとえば、常磐線は明治時代末に開通し、大野駅はその後の明治時代末に村民の支出で設置されました。(大野村と熊町村が戦後に合併)大熊町のみんなのもの感が強い場所だということになるでしょう。

大正元年(1912)から走行したと仮定して、9年間の停止があり、いま、令和二年(2020)(3/14開通)でありますから、90数年ぐらい思い出の風景だったものが再開できます。あと数年ぐらいで一世紀を迎えられるのですね。



ただし他方で、まだ辛苦の深い只中にある、計画の見通しが立っていない他の困難区域を置いていくことは、とても悲しく、慙愧(ざんき)に堪えません。除染や減容、実証実験など新技術の粋を集めた近代的なことも集中していく必要があるでしょう。浜通りへの移住促進も歓迎しています。

思いやりをもって実行し続ける人達にエールを送ります。被災した町村の住民と関係人口が幸せになれることを祈っています。戻らずと決めて避難先の住民となった人達にもお祝い申し上げます。どちらも決められない状況の人達の幸せも祈ります。

町の東側である中間貯蔵施設の面積が、減容化処理技術の研究と実践の促進により、目覚ましい成果を遂げ、国会で議決された法律通り、国策処分場の県外移転が達成され、移転元も移転先も、ともに産業活発化にて共存共栄の大再生が図られることを希望します。



消えたものが変化して、さらに再生していく、それは、幾度かの大転換となるでしょう。1000年も受け継がれていく話のなかで、自分という小さな個人はどんな生き方ができるのか。まったく聖人などではありませんし100年後に何を残せるか見当つきません。

けれども、未来のために、311当時、こどもたちと少数の大人たちで奥会津の桧枝岐村(ひのえまたむら)へ身を寄せ、大熊町の依頼で講師をして、こどもらに未来を語り強く生きることを自分が言ったことを思い出し、皆様にお世話になったことを思い出し、学び続け、たのしく前向きに生きていたいと思います。



いま水道も電気ガスもない「実家」の家庭菜園のごく一部に、あれ以来はじめて作物を植えられました。仮設住宅の時代に来てくれて出会えた妻が好きな作物です。

ちいさすぎて、そりゃ笑ってしまいますね。遊びみたいなものですが、できるのに1cmで100年かかると言われる土壌を大量に取られた、しかしタフで分厚い土地が回復するよう作業も続け、私的な実証栽培の一種です。

奥は、もと梨の果樹園の一部です。春夏秋冬で丁寧に維持しています。土地は、人の手がなく放置しておくと、いつの間にか草木がどんどん生えてきて開墾に費用かかる森の風景になってしまうのですね。

わたしたちは、区域内における農業を再生しようと、働いています。日ごろから地道にできることで、福島ブランドのさらなる明るいイメージ向上を図っていきたいと考えています。

長々とお読みいただき、ありがとうございました。何卒、良き一年をお過ごしください。


20200308
すきとおる空おおくま。

3月5日、大熊町の一部の道が解除され、道や門などのバリケードが解放された。警察パトロールは強化されるそうで助かる。私たちは帰還できているわけではないので、今度は自費で「立ち入り禁止(Do not enter)」標識を数カ所ある入口の全てに置くことにした。公的に立ち入り禁止のあとは私的に立ち入り禁止にしなければならない。

(実際まだ区域内だが、ゲートが置かれたまま開いたので今までとは違う状態だ。たぶん、半解除的な二重状態だ。14日には電車も通る。現実にそこに居る目線ではかなり便利になる。あれこれネットではこれぐらいのことからしてもみくちゃになっているが物事はメリハリは重要かと思う)

話を戻して、父と土のう袋に砂利をつめたり、ついでにトラロープで「もやい結び」を習った。船乗りでも果樹園でも使ったからだろう。結びかたいろいろ得意。前も習った気がするが今度こそ記憶力が向上してるので覚えられそう。船で海外の国々に行ったときの話を聞いたりした。同じ話を何度聞いても大人になった自分には有難いと思う。

おそらく解除になってから、どうも東南アジア系のひとで農機具や自動車を買い取りに、その場で交渉しようと探して歩いているようで、わたしの家にも来た。つい昨日は町内を車でひと周りして帰ったら、パトカーが2台、ある道に停まって警官たちが降りてきていた。ユニックから降りた東南アジア人がまた来ていた。

ユニックのナンバーを見たら今度のひとは九州地方からだった。遠いので少し心配した。そこには家の人たちが恐らくバスでの一時帰宅をしていたようだから、その日に合わせて取引のためか探して回っている可能性を推測したが、通り過ぎただけなので、分からない。いずれにせよ、いま特に双葉郡の皆さんは各自でもさらなる防犯強化が望まれる。すでに町内に常時カメラはあるけど。

大川原の道から解除された下野上の道へ向けてバイクが走り抜けていった(つまり二輪も国道のほうを突き抜けられるようになった)。道ばたで作業していた大川原のかたと談笑しつつ、帰宅した。大川原に限らないが、先祖が居たこともあるし友達や親戚の家々や歴史がある。

野上、大川原、下野上、熊町(村)……あれこれと地域に親戚や友人、知人がいる。いるはずなのだが、まだ居ない。いつでも帰れる状態にある人たちでさえ、みんな長い長い旅の最中だ。原発最中という菓子も「廃炉最中」「避難最中」「復興最中(これは多様な味のアンコでよろしく)」を新しく作るべきだな。

これから。これから。
船と船 つなぐは舫(もやい)……、結びかな。

20200301
おはようございます。いよいよ10年目を迎えようとしていますね。また3月に巡りました。今年度は雪が非常に少なかったようで、人類として環境やエネルギーそして農作物や平和など気になるいっぽうです。

2011年の東日本大震災と原子力発電所の大事故からの非常に深い多くの経験を思うとき、ぼくらは何を大事に抱えて生きていくと、優しいのだろう。そんなことを思います。

3月2日、午後4時半から4時45分にNHKのBS1スペシャル『福島タイムラプス』のクライマックス冬編(会津から大熊町へ)が再放送されます。

わたしと妻の吉田博子が出演しています。何度も再放送してくださってありがとうございます。親も見てくれました。普段、春夏秋冬の季節どれか1つだけ再放送のときは事前に分かりません。

今は、大熊町で農業関係の仕事のため、もとから地元感のあるいわき市に引越し暮らし始めています。が、原発避難の転々後2012年の31歳からほとんど30代を会津で過ごしましたので、会津アイデンティティが濃厚です。

今も何かとありますが、これからも福島の経験こそが世界に尽力という意味で、平穏や成熟へと導いていくんだというような気概をもって、精進していきたいと思っています。

この写真の場所は、日本遺産に認定された会津三十三観音巡礼をしていると通る場所で、会津若松市になります。巡礼は会津地方にわたって広範囲ですが実際にぼくらは平成28年2016年12月に認定されたすぐ後2年かけ強風も含め全て歩きで春などに巡礼したことがあります。

東北で日本遺産に認定された場所は、数少なく7名称(うち福島はなんと2カ所あり、もう一つは郡山市です)。そちらの雰囲気もぜひご覧ください。ひとは傷ついた分だけ優しくなれる。3・11のこと、歴史、いま、未来のこと、祈ります。

敬具
吉田邦吉 吉田博子

20200223
めまぐるしい天候は春一番だ。

いわき駅前の新しいビル「ラトブ」へ行く途中、となりの銀座通りにある中華料理「昇樹(しょうき)」へ行った。妻は担々麺。わたしの台湾拉麺は思いのほか辛くてうまかった。店員さんが中国語を話しているので話しかけようと思った。

しかし毎日覚えているはずの単語も四声(しせい)(要はイントネーションのこと)を忘れて言えず仕舞い。四声を忘れないよう練習も大事だが、あまり小さなことを気にせず話していきたい。

今日は天皇陛下の御誕生日だから、宮内庁にある記者会見の文章リンクを載せて、1つだけ便宜のため引用しておこう。今までの上皇上皇后両陛下の文もむろん、じっくり読まれたい。https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/30 

「憲法についての質問ですが,日本国憲法は,日本国及び日本国民統合の象徴として天皇について定めています。憲法を遵守し,象徴としての務めを誠実に果たしてまいりたいと考えております。」(陛下)

天皇皇后両陛下、そして敬宮内親王殿下の学習院大学文学部ご入学や皇室の皆様が幸せであられますようお祈り申し上げます。

陛下は水に関してご研究を持たれている。水運に加え「信玄堤(しんげんつつみ)」や「三分一湧水(さんぶいちゆうすい)」も視察したり防災や減災などにもご関心が深い。

20歳から始めた私の塾の名前は「AQUA学習教室」だった。水は哲学的なものだ。塾の文字は適塾などの印象がある。謙虚をもって美徳なので学習の教室とつけた。

福島県双葉郡大熊町では津波の後に「潟」が出来たのを散見している。3・11東日本大震災による大津波で、干拓した場所が戻されてしまったのだろう。福島県立博物館・学習院大学の赤坂さんが南相馬を歩いた時としてよくご講演なされる現象だ。

さらに、最近の気象極端化による水害により熊川が田畑をもっと潟に戻そうとして、しばらくうなえなくなる。水は、大熊の民俗である井戸も豊かにしてくれるが氾濫もするのである(地味豊かにもしてはくれるが)。

その井戸がわが家にあるが、あれからなぜか水が非常に減ってしまって悲しい。理由が分からない。考えられるのは、大震災で地下の構造が変化したか。それに水田を戻すには長い用水路を復帰した農家「群」が管理せねばならない。可能かしら。

いわき市では水害が人々の暮らしや命まで脅かしていて、かなり深刻だと言えるが、被災者の人口が少ないことが声を挙げる人の少なさとなってしまったかもしれない。中が空っぽになってしまった家々や片付けしている人々をしばしば見かける。

自分も微力ながら川の増水による木々や巨石の漂流物や川のコンクリート辺りの崩壊を撮影したりはしている。いずれ少しでも紙に書き残したい予定だ。水がいかに人々の暮らしに密接で重大か。思えば人間もほとんどが水である。

前半だけ英語併記。


20200216
〇2月14日
郡山ビューホテルアネックスにて毎日新聞の藤原章生さんがヒマラヤ登山したことに関する2時間の講演が開かれ、妻と聴きに行った。ジャーナリズム界に日々を過ごす名文家で登山家である藤原さんのご講演は人間の弱さが体験から考察された内容で共感した。力強く8000mである。帰りは握手してご利益を頂いた。

福島県常磐市(現・いわき市)で生まれた藤原章生(ふじわら・あきお)さんは、30年間、毎日新聞記者を続けてきたライターだ。70カ国以上で経験を積み、「絵はがきにされた少年」(開高健ノンフィクション賞)など著書多数である。北海道大学卒。

拙編著の書籍「フクシマ発」(現代書館)へご寄稿いただいたり私のヒゲを取材してもらって拙編著の総合雑誌WELTGEIST FUKUSHIMA名義も出して頂けたりした。本の機会をくださった著述家の星亮一さんや現代書館社長にも御礼申し上げる。

※藤原さんのヒマラヤ登山紀行は今こちらでお得。
https://mainichi.jp/premier/health/articles/20200129/med/00m/100/012000c?fbclid=IwAR3_9u8w9hZgYNtPfISYgaw1k9lCti-CXEEpeetJAV8e4Imi59KMhydDIsQ

ーーー

〇2月前半
もっと農業を学ぶ。あれこれ策を練っては変えていく段どり以前のところ。参考でスペインと連携した群馬から美味いのを取り寄せたり面白い。しかし結果として新策に方向転換したつもりなので勉強は足りないことになった。農業と言えば農水省官僚の人たちと会議をしたり、経産省もと官僚の人の講義を西会津町で受けたことがあった。短い間だったがよくしてくれた。

もはや春。2月中旬だが来週にはだいたい冬が終わり、そろそろ満足な距離を走れるようになっていくだろう。いかに人間世界が近代化しても普通の服装だけで極寒、強風、豪雨、猛暑、こればかりはなかなか容易に太刀打ちできないことを日々思い知る。本腰入れて次のステージだ。

ーーー

以上、大体日英筆記、同時表示。いつものように、いずれGoogleブログにも掲載する。最近のSNS日誌は時間をかけて書いた時おり投稿のスタイルなのでそのうちWELT化(雑誌化)も考えるかもしれない。16日は大安。


20200209
おはようございます。

あたらしく2冊を発行します。関わってくださる人達に心より御礼申し上げます。

13号は「ふくしま本の森」に関わる本好きとして、読んだ本たちの紹介をします。http://weltgeist.info/?p=17028

14号は、環境省による放射線の情報サイトについて学んだ随筆集も含みます。http://weltgeist.info/?p=17030


20200131
矢作さんがご執筆になった。

引用
ーーー
エースのジョーと初めて会ったとき、私は九歳だった。半ズボンを履きランドセルを背負っていた。そこは横浜駅西口のアーケード商店街の外れに建つ日活映画館で、通学路からは遠かったが、その通学路で出会った他校の友人の父親が小屋主をしていた。

ここから続き
 彼は目を細め、私を指差(さ)して「ちっちっちっちっ」と舌打ちすると引き鉄を引いた。黒いコルトの45口径ACP弾はその瞬間、的確に私を撃ち抜いた。

 その夜のこと、彼は銀幕からはるばる我が家を訪ねてくると勉強部屋の窓を叩(たた)き、ここを開けて夜へ出ろと言った。「書を捨てよ銃を握れ!」

 以来、私は彼の背を追い夜を遊び歩いて長く過ごした。

 宍戸錠さんとは二十代の後半に知遇を得た。
ーーー 
以上(抄)

ジョーこそが文学、心撃ち抜かれた 宍戸錠さんを悼む 作家・矢作俊彦 朝日新聞 20200131

20200125
つち、みず、かぜ。

あいも変わらず令和二年一月、もみくちゃな世界に、もみくちゃな福島であるが、思うには、いかにチカラを尽くすか、ということであろう。日々おのれの世界を作る。

いくつか敷地内の建物(旧隠居屋や旧牛小屋など)を解体したぶん埋設の水道管が途中で開いてるままなのを重機で掘り出して見つけたので蓋をした。区域の緩和と言えども、まだ域内だから簡単に業者が入れない。水道は流れていない。電気ない。

しかしひとがいない避難区域なんて言われているものの、これでもかというほど業者多く、すぐとなり富岡では朝のローソンが東京かというほど仕事人で溢れかえっている。ここどこ、というぐらい大繁盛だ。大川原のヤマザキも美味い。

ぼくはパーツ買いに行って議論してテコしてただけだけど。スコップだと気が遠くなるような土の量だが、油圧ショベルだとプリンみたい。これでいつか水道契約が出来る。たしか、不動産取引において埋設管の確認は実務講習で習う。

1/25 小川に引っ越してきて初の4kg背負い20kmを達成した。それに加えて、150m低山を4往復なので、新境地を開拓したことになる㊗。これから今時期だと気温と風と時間に恵まれていると達成できるだろう。自分なりの聖火マラソンは気合十分だ。大勝利を伝えたい。

そう言えば、友人が2人、会津と浜通りから聖火ランナーとなった。うれしいことだなあ。昔ぼくはオリンピック批判したが、もう気にしてない。ぼくはルサンチマンじゃない。お祭りを愉しもう。もしテレビ画面でランが見れたら感動して泣くだろうよ。

9年間が経つ。いろいろあった。

他、いわき市では図書館カードを再発行の申請をしたり。こんなに世界的なあらゆる課題山積の状況にあっても、抽象的な、やる気の意味で、われわれこそが次の時代を建設していくんだ、そういう気概で生きていきたいものである。

大河ドラマ八重の桜にて佐久間象山はこう言う。「何かを始めれば必ず邪魔する者が現れる。蹴散らして前へ進むのだ」

歴史的に上杉鷹山はこう言った。「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり」

そして、寝るも極楽。


20200115
ひとはさみしがりやだ。どうして理解してくれないのとか、知ってほしいからとか、もしよかったらとか、大丈夫だもんなんて書き綴ってたりして、セラヴィー(それが人生だ)。

先日ぼくらは大熊町の実家で仕事始めをした。こんな状況だが少しでも父から実学の直伝に感謝である。トラクターを洗った。果樹園の樹木は無いものの庭の果樹がまだわずかあるのでそれらを剪定した。

他に防犯管理や計画議論や資材見学など。帰りはいわき市の大川魚店でマグロやカンパチなど買い物したり。公共事業の再開はあと数か月も先だが吉田家に仕事は尽きない。

早生まれなので今月で38歳の仕事納め。肉体年齢は前の20代よりタフだと思える状態まで持ってこれた。ごくまれに寝込むが無事。禁酒で鍛えだして3年間が経った。禁煙して1年半。

空いた時間には何らかのことを覚えようと。海外でも安心に繋がりそうな護身術を3つ。パンチの種類ジャブの用途みたいなものを2つ。水をろ過する方法と火を起こす道具を1つずつ。サバイバル術と呼ぼう。合計7個。

覚える事まだまだ。そうだな、油断大敵。これぞ座右の銘にしよう。新しい走法でのマラソンも覚え始めた。20語学、執筆、編集、社会活動、すべて快走させたい。何度でも平穏を祈り。この世界で。静かなピアノを聞き。

大熊の椿の花咲く道すがら


20200112
最新の16号を、ついに発行します。

いつもお読みくださる読者の皆様とご執筆いただいた皆様に心より御礼申し上げます。

最近は消費税の増加がありましたが、本号は定価を維持することにしました(実質値下げとなります)。

定価550円です。送料は郵便局にて実費なので後で連絡します。ご注文ご連絡お待ちしております。http://weltgeist.info/?page_id=3815

*執筆者*
中筋 純
古屋礼美
果南子
稲山聖修
高田 緑
津田枝里子
酒井政秋
柴田慶子
芸術先生

*編集部*
・編集者
伊藤千惠
・デザイナー
天井優志
・総務
吉田博子
・編集長
吉田邦吉

20200105
あたらしい年を迎えることができた幸いを感じる。引っ越しが落ち着いてきた浜通りで暖かい日差しに溢れているからか。妻と山麓を散歩中、龍の髭のなかに魅力的な龍の玉が実ったのが見られた。

今年の正月三が日は寝違えたようで起きると右ひじをけがしていた。おかげで元日は箸も持てなかった。数日は腕立てなどの筋トレもほとんどできなかった。脚力や腹筋は十分。

それでも元旦お御籤を引いたら大吉だった。昨日ぐらいから自衛隊式懸垂ができるようになった。あまり力を入れられないが8回できたから最低ラインを達成した。

YOUTUBEでも見てきた朝倉さんという著名な格闘家の影響で、いつものトレーニング内容に各部位を同時に鍛えられるバーピージャンプを追加するようにした。これで最近追加したのが懸垂器具とバーピーということになる。

ーーー

りゅうのひげ
花言葉
『変わらぬ想い』『不変の心』『深い思いやり』

ーーー

昨年から農業の勉強も時おりしているが実行するまで書き出さないでおこう。新年の抱負はこの数年、成功している。今年は昨年末からの挑戦である適度SNSオフグリッドを再開する。他いつも通り。平和を祈る。かぼちゃの黄色が白いボウルの上できれいだった。

さて始めよう。
ちからが満ちている。



20200101

㊗ 令和二年
謹んで新年のお祝いを申し上げます。

昨年の夏あたらしい仕事を始め、冬いわき市に引越しました。皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします。

小川諏訪神社の元旦より

20200105
あたらしい年を迎えることができた幸いを感じる。引っ越しが落ち着いてきた浜通りで暖かい日差しに溢れているからか。妻と山麓を散歩中、龍の髭のなかに魅力的な龍の玉が実ったのが見られた。

今年の正月三が日は寝違えたようで起きると右ひじをけがしていた。おかげで元日は箸も持てなかった。数日は腕立てなどの筋トレもほとんどできなかった。脚力や腹筋は十分。

それでも元旦お御籤を引いたら大吉だった。昨日ぐらいから自衛隊式懸垂ができるようになった。あまり力を入れられないが8回できたから最低ラインを達成した。

YOUTUBEでも見てきた朝倉さんという著名な格闘家の影響で、いつものトレーニング内容に各部位を同時に鍛えられるバーピージャンプを追加するようにした。これで最近追加したのが懸垂器具とバーピーということになる。

ーーー

りゅうのひげ
花言葉
『変わらぬ想い』『不変の心』『深い思いやり』

ーーー

昨年から農業の勉強も時おりしているが実行するまで書き出さないでおこう。新年の抱負はこの数年、成功している。今年は昨年末からの挑戦である適度SNSオフグリッドを再開する。他いつも通り。平和を祈る。かぼちゃの黄色が白いボウルの上できれいだった。

さて始めよう。
ちからが満ちている。


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